植物を育てる「時間」がないから、ひとは「機械園芸」を愉しむようになる

鉢物(鉢に植えられている植物)は生活圏内、とくに暮らしのなかのすぐ近くに存在しています。
このコロナ禍で「生花が売れない」と聞きますが、逆に小売りの植物は売れているという記述もとある業界雑誌で目にしました
それはつまり、長い時間を掛けて植物を育てるということに、多くの人々が受容しはじめているということ。
いわば、時間の余裕が植物を育てるきっかけや動機になったともいえるのです。

園芸における「時間」をどう考えるか

「ボタニカログ」の閲覧者数は冬にガタ落ち

当ブログの統計情報を確認すると、実は冬の間はかなり低迷します。
4月ごろから一気に閲覧者が増え、5月の大型連休を中心にマックスに。
そして、9月を過ぎるころから徐々に低迷。
真冬の訪問者数と言えば、それはそれは厳冬期の街路樹のように寂しいものです。

おそらく「多肉植物」関連で閲覧してくださる方がメインだとは思いますが、その一方で、冬は園芸のシーズン」ではないのだとも感じるのです。
外に出るのは寒いから億劫だし、なにより日が暮れるのが早い。
仕事から帰っても暗いから、もう作業ができない。
いうなれば、園芸趣を行使するための「時間がない」のです。
だからこそ、園芸関連の情報を閲覧する必要もないのかもしれません。
もっとも、園芸店等に出回る植物の種類も限られ、冬の間の商戦には苦戦を強いられるというのは、園芸関係者なら誰もが同意するところだと思います。

とはいえ、逆に言えば「時間」があれば、伸びる部門もあるのではないか?というのが僕の感じるところ。

「苗」を売るという選択肢

例えば冬が最盛期のシクラメン
昭和期には大鉢のシクラメンを贈答品として贈られることが、大変に喜ばしいものとして重宝されてきました。
しかし、6号ほどの大きな鉢を家のなかに自由に置くことのできる家庭はどのくらいあるでしょうか。
また、贈られたとしてもそれらを管理できる「時間」に余裕のある世帯はどのくらいあるのでしょうか。

それら植物の「楽しみ方」を考えたときに僕は、花を咲かせた状態のものは現代の消費者にそれほどの需要はないのだと思うのです。
むしろ、しばらく花の咲かない状態の苗、3寸ほどのポットに植えられた状態の小さな苗を売ることのほうが「園芸的な面白さ」で評価してくれる層が一定数いるのではないか。

そのうえで求められる植物のポイントは…、

  • 花が咲くまでに「育てる」という行為を楽しめること。
    そして、来年も育てるという目標に向かって、また「育てる」ことができること。
  • 育てたうえで、好きな鉢に植えられるなど、「カスタマイズ性」によって消費者の選択肢を広げられること。
  • プロが扱う手技「葉組み」などの技法を一般の方が用いることによって、私にもできるんだ!というような「自己肯定感」を養成することができること。

…など、プロが「生産工程」としてある種、独占している「栽培時間」を消費者に譲ることで、かえって消費者の方々が受け入れてくれるポイントがさまざまに存在しているのではないかと思うのです。
とくにコロナ禍の現在では。

「栽培時間」を消費者に譲る

プロの生産者がシクラメンを「美しく仕立て、完成品を販売する」ことに付加価値を置いているあいだに、消費者の「可処分時間」が減少し、花を飾ること・育てることへの時間的余裕が年々、減少していきました。
そんな時間の減少に気づいていようがいまいが、昭和期と同じ商法で現代も「飾ること」を主目的としたシクラメンを売ろうとする。
結果的に、誰がシクラメンを買っていますか?という話に行きつくのです。
きっと、昭和期に家を建て、植物を置く時間と場所がある、さらに昭和期のままの価値観で植物を購入できる層のはずです。

ところが。
このコロナ禍によって多くの人が「ステイホーム」を余儀なくされました。
いまや「おうち時間」や「巣ごもり需要」など、住まいの周辺に自らが存在することを前提としたビジネスや生活様式が日常に根付こうとしています
これはきっと、コロナ禍が解消されたとしてもすぐにはなくならない価値観だと僕は感じます。

時間があれば住まいの周辺におけるあらゆる空間をカスタマイズしたり、そこに「居る」ことへの意味づけを人々は重ねていく。
だからこそ、時間があれば、園芸関連の商圏も自ずと発展する。
けれど時間がなければ、園芸を楽しむことができない。
なぜなら、園芸は陽のあるうちの、ある程度まとまった時間がなければ、「作業」や「観察」がしづらいからです。

…そういえば、コロナ禍以前にも僕は、似たようなことを書いています。

ゆえに「おうち時間」が増大しているいま、生活の中に植物が入り込める「時間」について、僕らは考える必要があると強く思います。
きっと、アフターコロナにはまた、忙しない日常が待っているはず。
いや。
すでにコロナ前とは違った植物の楽しみ方が、一部の消費者の中に芽生えているかもしれません。

  • 植物を育てることは楽しいと知ったが、時間がない。
  • コロナ禍で植物を購入したが、枯らすわけにはいかない。
  • 周囲が植物に手を出しているが、時間がないのでやらないが興味はある。

では、そういうひとたちにどうアプローチしていけばいいのでしょうか。
直接的な解決策は絶えず園芸を楽しむことの意義や情報を、僕ら農園芸業界の関係者やプロ・アマを問わないあらゆる趣味家が発信していくこと
これがいちばん有効だと僕は考えています。

稼ぐためには「可処分時間」を消費させる現代

また、コロナ禍ではあらゆる技術が従来では考えられないスピードで普及しています。
僕らが培ってきた「価値観」はひとまず横に置かれて、考える隙すら与えてくれません。
園芸にもきっと、その波は押し寄せてくるはずです。

次世代の園芸は次のようになると、僕はみています。
まず、植物を育てる「時間」を機械が代替して、その副産物に「楽しみ」を持ってくるようになる、と…。
植物を育てる時間がないのなら、機械やIoTを活用して、育てる楽しみを最大限に発揮しようと工夫するなど、これまで思いも浮かばなかったような新技術が登場してもなんら不思議はないのです…。

Eコマースの専門家である望月智之氏は著書の中で述べています。

消費者は、無駄な時間をとにかく減らしたい。そして、自由な時間を増やしたい。その時間は結局スマートフォンに吸収されることになるのだが、それがわかっていても、より効率的な商品やサービスを求める。自分で下す判断を少しでも減らしてくれるもの、プロセスを省略してくれるものに惹かれていくのだ。
現に家電は、ロボット掃除機や食器洗い乾燥機など、時短関連のものがよく売れている。さらに、一見すると時短とはあまり関係のなさそうな日用品まで、時短に関連するものがよく売れている。たとえば寝ぐせがつかないシャンプー、シュッとひと吹きで汚れが落ちる洗剤などがそれに当てはまる。
日経MJが年に2回発表している「ヒット商品番付」などを参照すると、いまやメーカーが出しているヒット商品の7割から8割は、時短に関連しているほどなのである。

引用元:『2025年、人は「買い物」をしなくなる』望月智之

つまりGAFAやBATHなどの巨大企業は、消費者からの消費を増大させるために、いかに「時間を消費させるか」ということを考えている…とも読めます。
で、その時間を捻出させるためにも、「時短」の商品が売れに売れている…。
稼ぐためには時間との係わりあいを一層、考えなくてはならない状況になっているのです。

そう考えると、植物を育てる時間は機械に代替させるとして、空いた時間のなかで植物を観察したり、ピンチなどの手入れをする時間を楽しむようになるのでは?
回数が必要なメンテナンスや細かい管理の調整(温度や光、通風)は機械が行い、個性を発揮させることのできるチューニングは人間が行う。
面倒な作業は機械が、楽しい作業は人間がという方向が強くなり、誰もがあらゆる植物を枯らさないで楽しむことができるようになる…。
または、空いた時間を動画観賞やゲーム、その他のアクティビティや労働に活用する。
人生の「時間」をあらゆるシーンにどう振り分け、無駄な時間を個々人が省いていくのか。
その判断がめくるめく繰り返されるのです。
そのひとつに「園芸」も加わり、無駄な「園芸」の時間はきっと猛烈に削られていく
未来の園芸はそんなカタチになるのだと僕は考えています。

未来の生産者は機械のために植物をつくる?

でもそうすると…?

僕ら生産者は、それらの技術に対応すべく、デバイス(機械)に規格された植物を生産することへのプレッシャーに埋もれるのだろうとも…(笑)。
ガラケーのゲームは誰も使わなくなり、iOSかAndroidに認められない限りゲームアプリをローンチできない…みたいな。
考えすぎかもしれませんが、たとえ良いモノをつくっても、機械に認められない限り、植物が売れなくなるのでは…?

そのうえ、園芸を楽しむことは機械に代替されない(それを代替されてしまえば「園芸を楽しむ」要素が無くなる)のであれば、今以上に「楽しい」ことは何かを追及しなければなりません

機械だけでなく、あらゆる場面に対応できること

機械に植物が対応することだけが求められるのではなく、もっと広範に扱われるようになるはずです。
栽培する住環境やインテリアエレメントとしてのデザイン性やフィット感。
さらにはシニア層と若者のような、年代別にあわせた栽培環境など、あらゆる用途・目的に応じた植物が求められるようになる。
というか、すでになっています。

つまり、あらゆるデバイスに対応できる「メディア」として植物がみられていく

…だとすると、育てるのが簡単で持ち回しがよく(輸出入など輸送などに耐えられる)、どんな栽培環境にもフレキシブルに適応できる、検疫をも通る「土」に植わっていない植物。
そんな植物たちが求められるのではないでしょうか。
それって、必然的に「機械で育てられた植物」…つまり、国内の慣行農法で栽培された植物ではない。
もっと言えば、生産から消費者の手元に届くまで、なんらかのかたちで機械を通した生産物であるのだと思うのです。
もはや工業製品のようなもの

もし、そんな生産現場が当たり前になって、日本の生産現場がいまと同じ体制だったら、誰にも買われなくなりそうです。
なぜなら、買っても家に導入された機械に使えないし(大きさがバラバラで機械の規格に合わない)、バリエーションが少ないのでそもそも選ぶ面白さがない。
ところが、海外メーカーのそうした商品は多様で強健で、しかも安い…。
虫もいない。
むしろ、海外メーカーの方がSNSなどのサイバー空間で話題を呼んでいる…。

そうなれば海外で生産された植物のばかりに消費者の手は伸びるのでは?
気が付いたときには海外企業の下請けに…?
というのが僕の予想するところ。

じゃあ、どうするのか

有限の時間を有効に、且つ、楽しく園芸に使ってもらいたい。
であるならば、繰り返しになりますが楽しいことへの意味や味わいを一層深めなければならないのです。

以前の僕のツイートを記して、このエントリーは終わります。

この記事を書いた人

mokutaro

植物好きが高じ鉢物業界に飛び込んだアラサー男子。群馬県に移住し、毎日、食べ(られ)ない嗜好性の強い植物とまみれています。 園芸を考えるブログ「ボタニカログ」を運営中。