【コロナの時間】第一次産業のバカ。ひとの作業を「制御」しすぎていないか?

第一次産業の「労働」を通して感じたこと

若者が逃げていく産業と、その町

とある日、驚くべき言葉を耳にしてしまいました。

知ってる?
コロナの影響でベトナムやインドネシアからの実習生が来ないから、キャベツ農家が大変なんだって。
俺にはもう年齢的にムリだけど、ここら辺の若い人は何をしてるんだろうね?

そんな言葉を述べたのは70歳に程近い男性。
地方に住むその人でも、そのくらいにしかコトを理解していないのだと衝撃を覚えたのと同時に、そんな考えだからこそ「技能実習生」という名の労働に頼るほかはなくなってしまったのだと再認識したのです[*01]。

あのね。
若い人は別の産業で頑張っています。
この時代のなかで農業に従事したいと思う若者なんているわけないじゃないですか。
あなたが農業に従事していなかったことと同じように、みなさん都市部で頑張ってるんですよ。
その発想、他人事すぎてバカすぎません?
と、心の中でひとり叫んでいました(笑)。

それはともかく、僕は「若者が逃げていく産業は必然的に衰退する」と考えています。
そのことについてはこのブログにも以前、書いています。

みんなで同じ商品をつくる

まず、第一次産業とはなにか。
教育系企業のウェブサイトには、

■第1次産業 自然界に対してはたらきかけ,作物を作ったり,採取する産業です。農業,林業,漁業などが当てはまります。

引用元: 日本のすがた|第1次,第2次,第3次産業とは|中学社会|定期テスト対策サイト

とあります。

これまでに僕もあらゆる業種・業態の仕事に就いてきましたが、いまの鉢物生産会社に身を置いて、はじめて第一次産業の現場を「体感」しています。

僕は園芸業界に就職する前、地方のデザイン会社などに在籍していました。
デザインの現場では基本的に、製作物は唯一無二の存在でなくてはなりません。
参考にすることはあれど、誰かのつくった商品の「パクリ」は認められません。
ひとりひとりが自分のアタマで考え、他とは違うものを生み出していく。
クリエイティブな現場の多くはきっと、そのようにして動いているはずです。

ところが、農園芸業界は違います。
手作業で同じものを、多くのひとが作り出していくという生産過程。
ひとりひとりが別の「商品」を作り出していくことがクリエイティブの現場だとするのならば、農園芸業界はひとりひとりが同じ「商品」を作り出すことを求められるのです。
もっとも「手作業」という名のもとに、商品の規格が統一され、同じものをつくることのできない作業者は淘汰される。
なぜなら、商品へのクオリティが担保されないから…。

労働の本質は「制御」

内田樹氏は著書の中で、

労働はその起源においては「安定的に消費できる」ことを目的に始まりました。
「安定的に」ということろが重要です。たまに飽食できるが、たまに飢えることもあるというのでは困る。自然からの贈与は人間側の都合では制御できない、だったら自然の恵みを人為によって制御しよう、そう思ったところから労働がはじまりました。
よろしいですか、ここが肝腎なところですから、読み落とさないでくださいね。
労働の本質は自然の恵みを人為によって制御することです。
労働の本質は「生産」ではなく「制御」です。人間にとって有用な資源を「豊かにすること」ではなく、それらの資源の生産・流通を「管理すること」です。

引用元:困難な成熟/内田樹(夜間飛行)

と述べています。
労働の本質は「制御」であり、職場などの労働環境でも人員を制御することが役割となる仕事すらある、と。
繰り返しになりますが、鉢物生産の現場に身を置くとその意味がより一層、見えてきました。

第一次産業とは、自然からの資源を「制御」することでモノを生産する労働のこと。
農業、ひいては僕も属する園芸業界は日々、水やり、肥料遣り、温度管理、遮光の度合いを管理・調整しています…。
大量の植物をいかに「制御」し、「商品」を完成品として出荷できるまでコントロールできるかを、経験と技術と(物理的な)行動によって積み重ねている。

そしてそこに必要とされる人材は、どんな状況下にあっても植物を「監視」し、物理的な行動力によって「制御」でき、長時間、植物の生産される「場」に待機できる人材
突き詰めれば、より労働にコミットでき「個」を犠牲にできる人材が必要とされる
つまり、労働者に無理を強いでも関係性が瓦解しない家族的な共同体にこそ、農業の持続性が維持・継続される。
「園芸業界は植物っていう生き物が相手の商売だからね」という言葉とともに。

加工を繰り返された「商品」に価値がある

ところが。

地に根付いた、滅私奉公的な労働がいつしか煩わしいものとなり、そんな煩わしさから解放された集団のほうに、より高い所得が発生し、次郎だけではなく太郎までもが都市部に繰り出すようになりました。
その理由は、自然を制御したことで生成された材料を加工し、加工されたものを商品とするから。

たとえば、僕らが毎日のように手にするスマートフォンを考えてみます。
「自然の制御からの副産物」であるという起源的な概念から考えれば、スマートフォンは果てしなく遠い存在ではありませんか。
遠くなればなるほど、ひとの手が加わり、簡単には作り出せなくなる。
けれども紛れもなく、あらゆる素材があらゆる場所で、あらゆる人の手によって作り出されているのです。
そのうえで加工が繰り返され、素材は部品となり、やがてひとまたまりに組み合わされる。
そうして生み出された「商品」は貴ばれ、対価も上昇。
気が付けば、(ある意味)誰でも作り出すことのできる商品をつくる第一次産業と、それ以降での格差が激しくなった
僕はそのように認識しています。

機械や材料には、動かしたり消費したりする分の「対価」が必要ではありますが、人間の場合は一定の再生産費を支払えば、対価以上の利益を生むことができます。
利益を生むことができるまで働かせ、利益を生んだ後でも使えるだけ使えればその分、使用者には「価値」が生まれます。
つまり、ヒトが働けば働くほど利益が生まれるのです。

だから、多くの人間を長い時間働かせれば働かせるほど、資本家、つまり経営者には収益が見込まれるのです。
いまから100年以上も前からすでに、資本論に書いてあることです。

人間の動きを「制御」する現場

そうなると経営者が考えるのは、いかに人件費を下げ、効率よく、農作物を収穫することができるのか。
作業者に効率を下げるような行動をするような人間がいれば、期待していた目論見はあたかも崩れ去ります。
機械を使うより人間を酷使すればするほどカネになるのだから、使えない労働者をどう管理するのか。
そこで考えられるのは、人間の「動き」に制限を設けるのです。
「収穫作業には左手にキャベツを持ち、右手にナイフ、切ったら隣の人に投げて渡して、1m間隔で整列する…」など、事細かにヒトの「動き」を指定する
そして、指定したこと以外の「動き」をする人がいるのなら、その都度、叱責する。
「なんで何度言っても分からないんだ、このバカ」
「要領が悪いよ」
「どうしてこんなこともできないんだ」
そのようにして、作業者を「制御」することが管理監督者の仕事となるのです。
つまり、自由な動きが認められないのです。

しかし、人間の「動き」まで制御してしまったところに重大な齟齬が生じてしまう。
従業員の手から足のつま先までを、自らの指示で動かしていると、まるで使用者自身がその人間自体までも「制御」していると勘違いしてしまう
本来、制御すべきは農作物だけであるべきなのに、労働者の精神的かつ、人格までをコントロールしないと気が済まなくなってしまう
人間をコントロールしている全能感に陥り、それこそが「生産」だと使用者は勘違いしてしまう。
いうなれば「人間」を機械のように扱うことではじめて、手作業における商品の製造が可能となる、と…。
たとえば大勢の「人足(ニンソク)」を使用する際には、ひとつひとつの動作に制限を設け、機械のように働くことを強要し、それができない人間はすなわち、エラーを起こし続ける機械のように見做す。
「使えない不良品」なのです。
ところが、そんな使用者の「全能感」こそに第一次産業、ひいては農業への「自由」が無くなってしまう原因が隠されていると僕は思うのです(他の職業にも同じような場面があるかもしれませんが…)。

農業は多くの人との共同作業があるからこそ、成り立ってきた産業です。
ひとりでは不可能なことを多くの「人足」を確保することで培われてきた産業です。
ゆえに他者との関係性が大切で、だからこそ農村でのつながりは深いものがあると理解しています。
資本の関係性以前に、個人の思考や動作をコミュニティ内である程度、制限しようとする暗黙の空気感や同調圧力があるのもきっと、円滑に労働を行うためでしょう。

けれど、そんなコミュニティのなかでは、革新的な発想が生まれません
なぜなら、これからは「制御」されることが今以上に、極めて嫌われるから。
革新的なアイディアを持ったひとが業界に入らないのだけでなく、「制御」されるから誰も入りません。
「制御される労働」への回避がこのコロナ禍でより一層強まったと思うからです。

コロナ禍で時代がスキップした

働き方さえも「自由」になりつつある

コロナ禍で「オンライン〇〇」が持てはやされています。
とくにオンラインで仕事をする「テレワーク」も、多くの企業が導入したといいます。
このことに対し、第一次産業で働くひとへ意見を求めれば、必ずと言っていいほど「ウチは関係ないから」と答えるのです。
けれど僕は、恐ろしいほどにまで深く関係していると感じます。

オンラインで仕事を済ませるということは、上記のようなある種、使用者が規定する労働への制限(しばり)が少なくなるということ。
働き方が肉体的にも精神的にも自由になるということです。
もっとも農地や工場まで足を運び、炎天下や極寒のもとでの労働を強いられない「肉体的自由」は大きな強みだと感じます。
「場」が自由。
「時間」も自由。
「仕事の方法」もオンラインでは多岐にわたって自由でしょう。
かたや農園芸業界は、「場」に集うことで仕事がはじまり、労働の「時間」には多大な制限が設けられているのが我が国内の現状です。
そこに「作業の不自由」が加わっている。

さらにいえば、オンラインで仕事が完結するからと都市部から地方へ人材が回帰…とメディアで喧伝されていますが、僕はその可能性は少ないと考えています。
そもそも教育や医療など、あらゆるハード面が衰退し、多くの企業が地方から撤退しているいま、都市部の住民が進んで不便を許容できるのか?と…。
一人暮らしならともかく、家族が居る場合には中山間地のような地方への移住はそこまで多くはならないと僕は思います。

ですが。
もともと地方出身で、さほど都市部への憧れや理想を持っているひとではなければ、地方での不便を許容できる可能性があります。
もっといえば、一定のスキルを持っていればオンラインで完結する労働であれば、第一次産業よりも多くの対価を得られる場合がある。

仮に地方に住む、卒業間近の高校生がいたとします。
オンラインでの労働は、生活への制限も少なく、ある程度、自分の時間を確保できる。
けれど、第一次産業は休みもなく、給料もオンラインでの労働と同程度かそれ以下です…。
もしも第一次産業と求人が隣り合った場合、選ばれるのはきっと、オンラインでの労働のほうだと僕は思います。

テレワークが普及することは第一次産業にとって無縁ではなく、むしろ危機的だということ。
旧来地方に存在した、基幹産業である農園芸業をいま、選ぼうとするほうが奇跡的です。
ただでさえ人材不足に喘いでいるなか、ますます人手を確保できなくなる。
「働き方改革」で労働者のワークライフバランスや価値観の変容をゆっくりと時代にあわせて変化させれば良かったものが、コロナ禍で大きくスキップしたように思います。
「自由な労働」に関して、水をあけられていた第一次産業がますます他産業との差を広めていく。
もう余裕はないのです。

教育も変わる

繰り返しになりますが、ひとを時間・場所・行動など、あらゆる面で制限を設け、「制御」していく働き方は今後、受け入れられなくなる可能性が高い。
ある程度、自らの思考で自由に行動できる時間や空間を持っている職業に、人材が流れるからです。
そしてその人材を育てるための教育もまた、第一次産業とは遠い「フィソロジー」や「方向性」を持った学習に変わっていくと思う。
誰かに「制御」される事柄が忌避され、個々人がひとではない何かを「制御」していくことへの重要性が高まる。

令和3年からはじまる「大学入学共通テスト」の意義について、まず一番目に掲げられていることは、

1.大学教育の基礎力となる知識・技能や思考力、判断力、表現力等を問う問題作成
平成 2 1 年告示高等学校学習指導要領において育成することを目指す資質・能力を踏まえ、知識の理解の質を問う問題や、思考力、判断力、表現力等を発揮して解くことが求められる問題を重視した問題作成を行います。

引用元: 共通テストの役割|大学入試センター

とあり、またその「高等学校学習指導要領(第1章第1款)」には、

(1) 基礎的・基本的な知識及び技能を確実に習得させ,これらを活用して課題を解決するために必要な思考力,判断力,表現力等を育むとともに,主体的に学習に取り組む態度を養い,個性を生かし多様な人々との協働を促す教育の充実に努めること。

引用元:高等学校学習指導要領

とあります。

知識だけではなく、思考力や判断力など、そのひとのもつ「個性的な部分」を発揮して問題を解く、というのが前提となっています。
答えに向かって、個人個人が右往左往しながらやがて適切な解にたどり着く。
しかも「主体的に」です。
ゆえに、答えを導き出す過程を、他人からとやかく指示されながらコントロールされることを極めて嫌うようになると僕はみています。
そのうえで、商品をつくる過程も然りだな、と…。

結論

だからこそ、僕らが働く第一次産業は周囲の他産業がどのような労働形態を模索し、実行しようとしているのかを注視すべき。
また、そんな他業種と激烈な人材獲得競争を勝ち抜かなけれなならないがゆえに、第一次産業に来てもらうには何をどう許容するべきかを見定めるべき。
重要視しすぎていた根本的な何かを捨て去るときが来ているのではないでしょうか。
むしろ、オンラインで仕事が完結する他産業以上のバリューを今以上に探し出し、提案しないと本当に危うい。

個の労働を制限しすぎない。
個の労働へある程度の裁量を持たせる。
労働への「多様性」を許容できない限り、発展はないと僕は強く思います。
多様な考えを教育される次世代のひとがいざ、農業の現場に来たとき、すべてに「決まり」があることを知ったら結末はどうなるか。
バカでも分かるはずですが。

  1. もっといえば、もはや技能実習生にも見放されつつあるのではないかと、最近の情勢をみるにつけ、思います… []

この記事を書いた人

mokutaro

植物好きが高じ鉢物業界に飛び込んだアラサー男子。群馬県に移住し、毎日、食べ(られ)ない嗜好性の強い植物とまみれています。 園芸を考えるブログ「ボタニカログ」を運営中。