農家は楽してはいけない?
「今の農家は楽ばっかしようとしてる。」
先日、こんな投稿がバズっていました。
まったくその通りだと思います。
この投稿がなされる前、僕も同じようなツイートをしていました。
21世紀なり、30年も前に「昭和」が終わっているのにも関わらず、なぜか「農業が楽してはいけない」=「苦労しなければ農業は成り立たない」という考えがいまも当たり前に吹聴される。
この時代錯誤の違和感を身に染みて感じている人は、僕だけではないようです。
もっとも、当該のツイートの反響(10万いいね以上)が物語っていると僕は思います。
農業なめんな!オレの働きっぷりをみてくれ!!
さて、なぜ農業は苦労を強いることがデフォルトなのでしょうか。
繰り返しになりますが以前、内田樹さんのネット記事が炎上した際、「農業なめんな!」という論調がその記事の反論として流布しました。
ひきこもりの人々に農地を譲って、そこで農業でもしてもらえばいい、という提案に対して「農業なめんな」と。
もちろん僕も「農業なめんな!」とは一瞬思いましたが、逆になぜそこまで農業が軽々しくみられてしまうのだろう。
はたまた、のんびりと農業して国内の食糧自給に貢献してもらえれば良いじゃんというロジックになるのでしょうか。
僕はそこに、日本の共同体的産業構造に要因があると考えています。
農地を扱う農業者は基本、古くからその土地で農業を営んできた人たち。
そこでは当然の如く、古くからの人と人とのつながりがあり、因習があり、文化がある。
その中心にあるのが農地であり、それを「業」とするのが農業である。
ゆえに共同体の核となる農地を誰彼構わず、用途も好き勝手に使うこともできません。
共同体のなかでの暗黙の裡にある意思決定によってしか使用用途が定められない。
だから楽な農業をそのうちの誰かひとりが行うことには、その共同体に存在する見えない労働観に逆らうことになるのです。
「アイツが楽したら、アタシが苦労する」
「こんなにもオレたちは働いているのに、あいつばっかり楽しやがって何様のつもり!?」
たぶん、楽をしようとする人間に対して瞬間的に憤るのは、こういった感情が湧き出す本能がある。
きっと、そんな感情が僕ら日本人には埋め込まれているのではないでしょうか。
完璧な商品を求めるのなら、手作業はノイズになる
いっぽうでなぜ、農業は楽ではないと思われるのでしょうか。
この数年間、農園芸業に従事して思うことは、確かに楽ではないということ。
農作業の大部分は「単純作業」であると僕は認識しています。
しかも、その作業を分解していけば実は誰にでもできる作業。
つまり、簡単な作業なのです。
ところがその作業における熟練度によって仕事の成否が評価される。
作業の正確性や確実性はそんな単純作業の複合と、長い時間による鍛錬によって成り立つのです。
それが楽ではないと感じる部分なのではないでしょうか。
実は現場に機械が入るシナリオもほとんど同じで、人間の行う作業を限りなく分解し、データを収集して研究し、それを再び現場に落とし込んでいく作業になる。
現場での応用が進めばそれだけ機械に反映されるし、機械が一度その技術を覚えてしまえば、その技術を誰か他者に教える必要もありません。
人間が再び、その技術を向上させる必要性もありません。
プロや職人が行う作業はロボットなどにはできないと耳にすることが多いですが、着実に人間の技術と同等かそれ以上になりつつあります。
熟練の「単純な作業の積み重ね」→「高度な技術を駆使すること」は、自らの手作業を高度に制御する必要があった。
すなわち、機械が普及する以前には、多数の人間が長時間、協力し合って作業を行わなければならなかったために、精神的な理念や理屈によって、その技術を習得・修練する必要があったのです。
誰かの練度が低ければ、集団全体の利益に関わるし、集団で作業している以上、協調性が求められるから。
だから「ラクをすることなんてもってのほか」なのです。
ところが、いまや機械がそれに取って代わろうとしています。
人間は要らないし、むしろ人間の手が入ることによって精度が下がる場合もある。
生産性を高め、効率よくものづくりを行うにはもはや、人間の手作業はノイズのように邪魔になってくるはずです。
これからずっと先の夢物語のような話に聞こえるかもしれませんが、精度が不安定な工業の現場では日に日に機械への信頼が高まっていく。
いっぽうで手作業でものづくりをしている国や団体があるのも事実で、その乖離や格差が激しくなる。
ゆえに機械化が遅れている国や現場であればあるほど、汎用化し低廉化した機械が現場に導入されるようになれば、その影響は計り知れないものになるはずです。
人間が大切にしてきたものが機械によって一瞬にして奪われてしまうのだから。
職人が消えた看板業界の憂い
「つくる」ことは機械が行う時代はあっという間に
そんな現実はあらゆる産業に及んでいて、真っ先に機械化の影響が現れた産業のひとつに看板製作があります。
「機械が入ってきたら、それに代わる強みがないと生きてけない。だからデザイン(ブランディング)を通してお客さんに利益をもたらすのが今の俺たちの仕事だ」
そういったのは、先日お会いした看板会社の社長さんです。
そもそも、昭和の時代、ほとんどの看板は「手描き」でした。
店舗の看板から建物の室名表示板、オリジナル黒板まで、手作業で線をひき、筆などで文字を書いていたのです。
ところが1990年代頃よりマッキントッシュとドローイングソフトなどが相次いで導入。
規格化されたフォントが手軽に使えるうえ、大型のインクジェットプリンタによって短時間で商品を制作することができるようになりました。
このとき、「手で描く」仕事は駆逐され、職人が行う労働の内容も変化したのです。
看板を「つくる」ことはデザイナーの仕事になり、職人はもっぱら「施工」することがメインになる。
つまり、労働の主体性を職人は失い、経験と技術を制作物に落とし込む作業はあまり意味をなさなく成った。
なぜなら、同じような製品はどこの看板会社も瞬時に作れるようになり、あとは価格と看板の耐久性(クオリティ)が勝負となる。
ゆえに長い時間を掛けて培ってきた「同じものを作り続ける技術」は重要ではなくなり、看板をつくる仕事を継続するためには「今までにないもの」を作り出す柔軟な発想力が求められるようになったのです。
それができなければ、ただの「作業員」と成り下がるのです。
機械を使った新人に、プロやベテランは勝てない
そんな時代の変化に晒された先述の社長さんは、農業も同じだろ?とよく言います。
やがて確実にAIや機械は農業の現場にも否応なく現場に入り込んでくる。
それらは職人の技を参考にしているはずで、その職人の手技を絶えずアップロードしているのだから、そこらへんの「プロ」は機械に勝てるわけがない。
だから新人や素人の方がよっぽどいい商品をつくることができる時代に必ずなる、と…。
ならばそうなったとき、何が大切になるのか。
機械ができない人間らしい仕事を農業において実践できることは何なのか、今のうちに考えたほうが良い…。
そんなことを僕にアドバイスをくれるのです。
だからといって何が何でも機械化すればよいというのものでもありません。
機械を導入できる農業集団とそうでない集団もいるわけで、それは実情に合わせて運用方法を検討すればいいだけです。
機械が使えない、使わないのであれば、それなりの工夫をすればいい。
ただ、僕が危ういと思うのは、取り入れる余地があるのに真っ向から機械の導入を否定し、機械化した他者を批判すること。
「ラクをすること」が悪になるのなら、ハーバー=ボッシュ法などで楽に窒素肥料を用いて作られた食料を一粒も食べてはいけないということにもなりかねない…と僕は思う。
歴史を経るごとに得られた技術や品種によって生かされてきているのに、それを否定するのは今まで食べてきた食糧でさえも否定することになりかねません。
日本人の誰もが先進的な技術の恩恵を受けているのですから。
危機の時代に国家は「家庭菜園」を許すか?
1970年以降、わが国の農業の収量は変化していません。
むしろ1960年代頃より劣っているとの見方もあります[*01]。
農業は昭和の時代のまま、その業態を辛うじて保っているのです。
その内実は、別の仕事をつづけながら片手間で行う、家族単位の小さな農業などを守り続けたために、農業という業種自体の存続に暗雲が垂れ込めてきた。
シンガポールのように食料自給率が数パーセントといえども、食料の確保を貨幣の交換によって成り立たせている国とは違い、年々、その国力も低下。
どう考えても自国の食糧自給体制を今まで以上に改良しなければ、国の存立すら危ういのではないかと考えます。
Twitterなどにも書きましたが、いずれ他国の安価な農業機械が大量に我が国に導入されたとき、5Gのインフラ装置が問題となったように安全保障上、厳しい状態に置かれるように思うのです。
機械化が進めば進むほど、その国の「生産性」を機械の開発国や企業が握ってしまう。
逆に言えば「ラクをする」ことに熱心に取り組む企業や国は、そのイニシアチブを取ることができる。
つまり、「ラクをする」農業の発展は安全保障上においても、重要なことであると僕は考えています。
危機を生き延びるためには絶えず新しい技術の研究開発、そして現場への導入が重要であるのです。
看板業界の憂いを農業に当て込んでみれば、次のように考えます。
農産物を生産したとしても、それを売ることができなければ貨幣に交換することができない。
貨幣に交換するためには、他の事業体と同じかそれ以上の「商品」に命がけの飛躍を遂げなければなりません。
それをせずに自家消費のままの、ただの家庭菜園であれば問題はありませんが、もしも仮に周辺国の地政学的状況に変化が及んだとき、旧来の農業が許されるのでしょうか。
はたまた機械が導入されず、生産性が低いままの状況では、コロナ禍で立ち遅れが露見した日本のデジタル化やリモートワークの不備と同じ構造の問題が発生するのではないでしょうか。
否が応でも生産性を向上させるアクションを起こさなくてはいずれ、農家が農家として業を営むことさえも認められないのではないかと僕はみています。
近年、頻発する危機の中では。
物凄く飛躍した考えであることは認めますが、あながち現実離れしているとは感じていません。
園芸業界はどうする?
もっと考えていきたいのは、そういった危機が起こったとき、僕らの従事する「食べるものでもない植物」を育てる園芸業界はどうなるのでしょうか。
戦時期には「不要不急」の「贅沢な娯楽」であり、ことごとくコメやイモを供出するために転作したという歴史がわが国にはあります。
コロナで「食糧難に陥る」とウワサがたった時も、同じ轍を踏むような気がしてなりませんでした。
そうならないためにも平和を維持・持続していくことがもっとも大切なのは言うまでもありませんが、楽をしてはいけないマインドが流布するあたり、相も変わらず「国家の危機だから楽をするなんて!」と転作してしまうのでしょう。
コロッと、ね…。
- 日本を救う未来の農業/竹下正哲・ちくま新書 [↩]