以前、なぜ僕らは植物を育てているのかという疑問を、「癒し」という紋切り型のキーワードから探ってみました。
その結果、植物の成長に伴って、無事に育てることができた「自己肯定感」が植物を育て続ける理由になるのではないかと考えたのです。
ところが、この記事を書いたのはまだ、個人で植物を育てていた時代。
いまは誰かのために植物を栽培する、鉢物生産会社で働いています。
自分への自己肯定感だけを考えて植物と対峙している時とは違う、対価を得ながら他者へ植物を譲り渡す行為。
そこにはきっと自己肯定感以上の行動理由がある。
でも、その根源とは何なのだろうと考えたのです。
そして、このところやっと、商売として植物を育てる理由が分かってきたのです。
それを言葉にすれば単純ですが、
誰かに喜んでもらえるために、植物を育てている
ということ。
さらには、喜ばせる理由を追及していくのが、僕ら鉢物生産者であると感じるようになりました。
植物を育て上げる「成功体験」
よく、植物を育てる動機として「癒されるから」と答える人がいます。
確かに小さな子苗をみれば、可愛いと思うことがあります。
が、植物に対して「癒し」という言葉ひとつで片づけるのとはどこか違う、何かが足りない…。
もっとも自分自身を鑑みても、植物を育てて癒されたことはありませんし。
ある時を境に、そんなことを思うようになりました。
小さな子供や子犬をみれば場が和んだり「可愛い」と思い、それが結果的に「癒された」ことになるのでしょう。
ところが、植物はさほど動きはしないし、しゃべりもしません。
ではなぜ人は「癒される」と答えるのでしょうか。
その理由は、単に「癒される」ことに代わる、植物を育てることによって得られる感情を当てはめる言葉がないからでは?と考えたのです。
そこで僕は植物を育てたことによる「自己肯定感」こそが、「癒し」の根源的感情なのだと仮定。
すなわち「自己肯定感」とは、
自己の栽培領域において、植物が正常に、あるいは想定以上に生育したことによる結果、得られる高揚感や達成感
であるのだと。
そう考えてから、植物を育てる意味として「癒し」を用いる違和感は、だいぶ解消されたのです。
植物を買うための3つの動機
次に、植物を育て上げたことだけで満足するにとどまらない場合があると気が付いたのです。
いまやSNSをはじめ、あらゆる情報媒体によって植物の所有をアピールする場が様々にあります。
植物を育て上げたことを画像や動画によって他者に伝え、「いいね」やコメント得ること。
つまり「承認欲求」を昇華することで得られる高揚感も「自己肯定感」のひとつではないのでしょうか。
いや、「他者肯定感」とでも言いましょうか。
そんな「自己(他者)肯定感」は次なる植物を育てる原動力にもなり、園芸シーンを問わず、あらゆるビジネスにおいても「承認欲求」を高めることは、いまや重要な施策となっています。
ゆえにポイントとなるのは植物の
- 所有すること
- 栽培すること、体験すること
- 活用すること
にあります。
そのうえでこれらの価値や意義をどのように「見える化」させるのか。
これらの経験を他者にどう伝えることができるのかが重要になってくるのです。
SNSなどに画像や動画、はたまた文章に落とし込むという行為は、まさに価値や意義を他者に伝えようとするからこその行動です。
それを推し量り、提案することが「見える化」なのです。
たとえば、昨今のタピオカブームで言えば、
- タピオカ飲料を購入し(所有)
- タピオカ飲料を飲み、食感を楽しんだり味わったり(体験)
- インスタグラムにアップする(活用)
ことまでが一連の行動であり、承認欲求を昇華するうえではどのステージも欠かせないものだと僕は考えています。
誰も持っていない植物の所有がステータスに
以上の流れを考えると、ことのほか重要なのは2番目の「栽培する・体験する」というステージ。
上記のタピオカでいえば、タピオカを飲まないでインスタグラムにアップすれば、もちろん、「いいね」が貰えるかもしれません。
けれどそれでは本末転倒。
中身がないので、繰り返し承認欲求を果たすことができません。
園芸と言う趣味において「植物を育てる」という、至極当たり前な行動様式はどんな時代や場面にあっても重要で、深く考慮するべきもの。
昨今耳にする「ありきたりな植物はもう売れない」というのは、ありきたりな栽培体験しか得られないだろうという直感が図らずも結びついてしまっているから。
それこそが植物を「つまらない」と感じる根本要因。
逆に言えば、珍しい植物に注目が及んでいるのは、その植物を栽培し活用する、いわば②(体験)と③(活用)のステージとはどのようなものかを自らも体験したいからこそなのです。
だからこそ、珍しく流通量の少ないものに購買意欲が沸き起こる。
園芸業界のキャスティングボートを握る人たちはつい、①のステージに目が行ってしまう。
違います。
考慮すべきは②の体験です。
そして②の体験があるからこそ、③の活用があるのです。
さらに②と③を経て、趣味をさらに深化させるために①の購入があり、これこそが繰り返しコレクションを集めてしまう動機なのです。
「消費拡大」という事業に中身のなさを感じてしまう所以は、もっぱらこの辺りにあるのではないでしょうか。
だからこそ「誰かに喜んでもらう」植物を
冒頭に書いた、「誰かに喜んでもらう」という意味は、上記のことを考えた結果です。
植物を育てた末に「喜ぶ」。
一見、単純のようにみえる、そんな感情を湧き起こすのは、実はとても大変なこと。
個々人の「自己肯定感」はあまりにも主観的で、誰かが意図をもってコントロールするのは難しい。
けれど、その手助けをする方途は数多に存在すると僕は思います。
で。
そのキーワードとなるのが「自己肯定感」なのだと、思うに至りました。
結論から言えば、誰かに喜ばれる植物を作らなければ、これから先は生き残れないと僕は思います。
鉢物の生産会社に就職して身をもって考え付いたことです。
質の良いものをつくるのは当たり前のこと。
そのうえで大切なのは、植物を育てる体験を通じて得られる「自己肯定感」を、どう提案していくかどうか。
また「他者肯定感」の付加価値をどう考慮すべきか。
難しい大問題だけれど、その答えを導く手順は単純でいて明快です。
提案する側が植物の楽しさを自らが体験し、自己肯定感を得る。
そして思いっきり喜び、その楽しさを具現化すれば良いのでは・・・?
以上が「内的要因(ソフト面)」から考えた植物を買う理由。
次は「外的要因(ハード面)」から、人が植物を買う動機(買わない理由)を探ってみたいと思います。
追記
ここに記したことは概ね、消費者の思考や感情によって行動が移される「内的要因」についてです。
そして、こちらも考慮しなければならない「外的要因」についても書きました。
お時間のある時に、どうぞ。