【コロナの時間】「泥臭い」原体験の価値観が変わった?シニア層が花を買う理由が僕にはわからない。

「泥臭い」ことは良いこと?悪いこと??

なんで咲いた花を買うの??

コロナの時間」シリーズ。
ここまで2本の記事を投稿してきましたが、これらの記事を書こうと思ったのは「エモ消費」という消費行動を知ったから

「エモ消費」は主に若者の消費行動によるところではありますが、逆にシニア層はどのように「植物」や「花」を買うのでしょう。
そう考えたとき、鉢花然り、切り花然り、「咲いて当たり前の花」をなんの躊躇いもなく購入する姿が目に浮かぶのです。
つまり、「育てる」ことよりも「飾る」ということのほうに、植物を買う理由のウェイトが置かれている。
けれど僕は「飾る」ことだけでは植物の面白さを理解できないし、「育てる」ことによってはじめて「エモ消費」のような体験型の園芸が成立すると考えています。

そして思うこと。
シニア層はなぜ、完成した花を許容できるのだろうか
僕はそこが不明瞭で想像がつかないのです…。

そこで仮定したのが、シニア層においてはすでに植物を育てるという原体験を持っているので、必然的にそこに起因する「泥臭さ」をも知っているのではないか
だから、泥臭さをすっ飛ばした、買えばすぐに観賞できる、いわばインスタントに花を愛でることのほうに比重が傾いているのでは、と…。
植物栽培の原体験に関して、前回のブログにエントリーしましたので、時間のある時にぜひ。

住まうことに合理化されると「土」がなくなる

いまや、地面はアスファルトで被覆され、出会う植物の数も減るのが、都市部を中心とする住宅街です。
地方の中心地などでもその傾向は、年々増していると考えています。

僕が園芸趣へ走るきっかけとなった、横浜に住んでいた曾祖母はいつもこう漏らすのです。
「お前の家には庭があって羨ましい」
と。
幸いにも僕の実家には庭があり、畑を造成した土地だからこそ良い土がある…。
園芸が趣味だった曾祖母はそう考えて、僕に何度も土をくれと催促したのです。

そう。
ひとが住まうことに合理化されたまちには「土」がないのです。
土がないからこそ、野菜や花を育てたり、育てた食材をそのまま食べることもない。
ましてや、山への関心もないので「旬のモノ」への親しみも、経験もありません。

もっとも、そんな自然からの「恵み」を享受するためには、土を耕してタネを播き、都度、肥料やりや剪定などの管理を行うなどの「泥臭さ」が必要です。
そんな「泥臭さ」を知ってはじめて、野菜ってこう育つのか!とか、無為に食べてたけど結構大変なんだなとかが分かる。

むしろ、「泥臭さ」が増せば増すほど、園芸も楽しくなるのです。
失敗も少なくなる。
できれば清潔で、美しいインドアグリーンを心掛けたいものの、限度があります。
清潔を志向すればするほど、植物に必要な何かが欠乏し、やがては枯れていく…。
適切な土や肥料、そして陽の光や風など、自然のなかで当たり前に存在するものを、当たり前のように植物に与えることによってやっと、当たり前に育つ。
そんな当たり前こそが「泥臭さ」だったりするのです。

「泥臭い」ことのハレとケ

きっとシニア層のほとんどが、そんな「泥臭さ」を経験している
だからこそ、そんな経験が汚らわしいもの、つまり「ハレとケ」の「ケ」にあたるものと認識されているのではないか
先祖も含めて皆が、当たり前のように経験してきた「泥臭さ」が実は当たり前すぎて、そんな経験を人前に晒すことなど恥ずかしいことだと憚られていたのではないか…。
僕よりもずっと年長の方と植物の話題に触れるとき、どこかそのように感じるのです。

植物を活用したり触れ合うためには泥だらけになって、面倒な手間を掛ける必要があることは自明の理。
一朝一夕には美しい花を目にすることはできないし、美味しい米や野菜も口にすることはできない。
ゆえに「ハレ」の状態で店先にならぶ鉢花や生花を買うことこそが豊かなことの象徴であり、高度経済成長以降に整備された、ある程度「個」が尊重された無機質な住宅にそれらを「装飾」した。
いまの団塊世代をはじめとするシニア層の植物感性を、僕はこのように捉えています。

団地が僕の世界のすべてだった

ところが僕ら若年層には、植物を触れ合う確かな原体験がなくなりつつあります
生まれ育った場所にもよるかとは思いますが、少なくとも僕は、神奈川県の片田舎に引っ越した小学生のころにやっと、「ペンペングサ」を知った。
それまでは「トカゲ(カナヘビ)」も見たことはないし「ドクダミ」の臭いすらも知りませんでした。
大人が整備した、居心地の良い団地の中庭や公園が僕の世界のすべてだったから…。
畑で家族を手伝ったり、泥まみれになって遊ぶことなど、経験もしませんでした。

だからこそ、中学生のときに曾祖母から譲り受けた「カネノナルキ」が育つ様は心底、衝撃的だったのです。
落ちた葉から小さな「カネノナルキ」があらわれ、増えるとは想像を絶する。
なにより葉っぱ1枚に詰め込まれたエネルギーの膨大さに奇妙な感覚を覚え、それこそ葉の1枚1枚が貴重な貨幣にも思えました。

以降、あらゆる植物に手を出し、失敗を繰り返し、土をはじめとする園芸の基礎知識を理解しはじめています。
そう、現在進行形で…。
いま思えば、カネノナルキとの出会いが僕の植物を理解するための原体験だったのかもしれません

泥臭い植物との触れ合いが「ハレ」に

いま、「エモ消費」の主役である若年層にいたっては、自然と触れ合う「原体験」を得る場が限られてきています。
だからこそ、植物を育てるという行為こそ刺激的で、その中で豊富な経験を得ることができる。
そんな経験をSNSなどを通じて、周囲に伝え、楽しさや泥臭さの価値観が伝播してゆく。
泥臭く植物と触れ合うことがもはや「ハレ」なのです
ゆえに、未完成の植物にこそ、エモ消費の根幹となる価値が潜んでいると僕は考えます。

泥臭い経験が原体験にあるのか。
原体験に泥臭い経験がないからこそ、すすんで泥臭さを求めるのか。

はなはだ飛んだ理論が展開されているとは自覚しているが、読者の方はどう思いますか?
僕はいま、シニア層が「完成した花」を求める理由が、特に気になるのです…。
何人かのひとに聞いたり、ブログを読みまわったりしていますが、決定的な「考え」を掴めずにいます。
機会があればぜひ、ご教授ください。

追記

植物がともに「居る」こと

コロナ禍のなかの母の日に僕は、伯母に花を贈りました。
職場で育てている鉢花です。
そんな伯母に先日、久しぶりに会ったのですが、花を贈ったことを喜んでくれたのです。
会うなり伯母はこう言うのです。

私、ひとりで家に居るけれど、植物が「居る」ことで私も生きてるって感じがしたの!
それは本当にありがたいことだったのよ。

ふと、伯母の家の窓際に目を遣ると、昨年贈ったシクラメンがまだ花をあげ、葉を繁茂させています。
いつでも植物を育てる方法を矢継ぎ早に僕に投げかけ実行する姿は、頭が下がります。
彼女は日々、植物のある生活を楽しんでいるのです。

伯母も母も、そして曾祖母も土のない横浜生まれ

伯母には子供がいません。
長年、夫婦2人暮らしだったのですが、一昨年、夫が亡くなりました。
周囲に身寄りもないことから、四国から僕の家族の住む神奈川へと引っ越してきたのです。
きっとまともに母の日に花を贈られる経験もなかったのでしょう。
伯母の携帯には贈った花の写真が何枚もありました。

伯母は「カネノナルキの曾祖母」の孫。
幼少期から横浜に住んでいて、あまり緑や花に縁のない生活を送ってきているはずです。
つまり泥臭い経験をできる環境ではありませんでした。
いっぽうで僕の母は同じように横浜で育ち、植物とは無縁の生活を送り、植物と触れ合うこと、関わることを忌避します。
そう考えたとき、きっと、伯母も僕と同じ、曾祖母からの影響を強く受けているのではないか
曾祖母からの「原体験」を継承しているのではないかと、勝手に想像を膨らましています(笑)。
姉妹でも感性が変わる不思議…。
今度、伯母さん本人に、聞いてみよう。

この記事を書いた人

mokutaro

植物好きが高じ鉢物業界に飛び込んだアラサー男子。群馬県に移住し、毎日、食べ(られ)ない嗜好性の強い植物とまみれています。 園芸を考えるブログ「ボタニカログ」を運営中。