「エモ消費」を考えてみる
「エモ消費」って何??
以前、「ヒト消費」について投稿しました。
その後、「エモ消費」という言葉に出会い、「ヒト消費」とは「エモ消費」のひとつであると考えを改めたのです。
その理由は、「ヒト消費」という言葉の意味は大きく、「エモ消費」のほうが、若者の消費行動への現状を捉えられていると思ったから。
エモ消費との言葉を提言した荒川和久さんは、
「エモ消費」は大きくは、ふたつの欲求に起因する消費である。
引用元:「エモい」は若者言葉ではない?広めたのは落合陽一さん。エモ消費時代が来る!
人間として根源的な欲求である「承認欲求」と「達成欲求」がある。「エモ消費」はこのふたつの欲求を満足させることで、幸福感を得るものである。
と述べています。
さらに「エモ消費」とは、
そして今、社会の個人化が進行するとともに、消費の世界においても個人化が進行しています。所有や体験はもはや手段と化して、そうした行動の大本にある精神的な安定や充足が目的化されるようになってきているのです。所有価値でもなければ、体験価値でもない、それらはパーツにすぎず、それを通じて得られる「精神価値」に重心が移行していくのです。それが拙著『超ソロ社会』で私が名付けた「エモ消費」であり、群から個の消費の比重が高まるソロ社会化において重要な視点となります。
引用元:「エモ消費」とは自らの幸せに直結する行動で、幸せのマイレージを貯める行動だ。
とも説いています。
植物への関心が薄らいでいる理由
この流れは園芸業界にも、すでにかなり食い込んでいると僕はみています。
その理由は「花を飾る」のではなく、「花を育てる」ことに重きが移っているから。
昨今の「多肉植物」や「コケ」「コーデックス」「珍奇植物」など、挙げればキリがないほどの園芸ブームには、共通するポイントがあります。
それはどれも「自分で育て、維持すること」にカルチャーの重点が置かれていること。
ひと昔前、といってもほんの20年ほど前までは、花を買う理由は「飾る」ためでもありました。
無機質な室内空間において彩を加えること。
プレゼントとして豪華に咲きそろった花を贈り、それをまた飾ること。
そして、花を活けることが「たしなみ」とされる時代もありました。
ところが、生活に強く根付いていた花の消費は、ここ数年で支出が続落し、明らかに花や植物への関心が薄らいでいるのです。
その原因は3つの余裕がなくなったから。
それは「時間的余裕」「空間的余裕」「経済的余裕」。
詳しくはブログにも書いたので、こちらを読んでください。
特に「時間的余裕」の損失は、園芸業界にとって、いちばん影響が大きいのだと僕は考えています。
園芸はある意味、時間に余裕がなければ向き合うことのできない趣味。
ところが夫婦共働きの世帯が増え、独身者においても(労働時間が減りつつあるとはいえ)多様な娯楽や交際で容易に時間を割くことができなくなった。
その結果、貴重な時間を使うためには、それなりの「意味」や「意義」がなければ消費行動に移しません。
現代の若年層にとって、「意味」や「意義」のない時間を無為に過ごすことは大きな苦痛を伴い、なかば反射的に拒絶するようになる。
その拒絶されたもののなかに、出来合いの、完成した花が含まれていたように僕は思うのです。
僕らの身の回りにはたくさんの「エモ消費」が渦巻いている
植物はネトフリやスポティファイに勝てるのか?
完成した花は飾るだけで、あとは枯れるのを待つだけ。
つまり、鑑賞期間が短いということでもあります。
鑑賞期間が短いということは、費用対効果が低い。
3,000円で買った花束が約1週間で見るも無残な様をみせるのなら、その1週間のあいだに魅せる花に強烈な意味合いが含まれねば「花を買う」という消費に納得できない。
しかも月に3,000円払うのなら、ネットフリックスやスポティファイなどサブスクリプションサービスの方が安い。
1週間とは言わず、3週間も好きな時間に好きな映画や音楽を楽しめるのだから。
端的に言えば、花や植物はサブスクリプションサービスの「娯楽感」に勝てるのか?ということ。
身の回りには「エモ消費」を刺激する精神的な高揚を促すサービスはいくらでもあります。
花は枯れる様ですら美しいと説くひともなかにはありますが、そんな高尚な精神論は、花への原体験のない人間にとって豚に念仏。
忙しない生活の中で、一瞬で終わってしまう花の移り変わりをゆっくり眺めている暇はないし、そんな時間と費用が勿体ない…と考えてしまうのです。
ところが視点を変えれば、鑑賞期間が長く、動きも大きく様変わりしない非常にゆっくりとした成長をする植物が好まれるようになる、ともいえます。
それはどういうことか。
植物を「育てる」ということにこそ、「エモ消費」の根幹である「承認欲求」と「達成欲求」があるのです。
旧来ではそれこそが「価値」とされてきた花付きの植物ではなく、未完成の、ちいさな「苗」のような植物が頻繁に取引されるようになっています。
しかも、品種はすさまじく多様に。
その意味は、自らの個性を依拠させるためのツールとして植物を用いるようになってきているから…。
忙しい暮らしのなかでも、ぶつ切りの時間のなかでふと植物を鑑賞し、手を入れ、育てているという承認を植物から得る。
これが荒川さんの説く「達成欲求」。
そして、その植物の栽培状況をSNSなどに投稿・発信して「自己肯定感」を得る。
言うまでもなく、これが「承認欲求」だと僕は思うのです。
完成した花を買い、ただただ消費することにはもはや、価値が薄れてきています。
逆に言えば、小さな苗や、未完成の商品をチョイスし栽培するなど、生活のなかで自分なりの「手間暇」という時間を掛け、その暮らしぶりを体感することへの価値が高まっている。
そもそも「育てる」という行為の副次的な産物に「飾る」という旧来の価値観が含まれるものであり、僕はここに園芸文化の深度が図らずも深くなりつつあるようにも思えるのです。
統計にも表れている若者の消費行動
他に、若者が消費をしていないとされる根拠は、統計にも表れていて、久我尚子氏の「若者は本当にお金がないのか?」という書籍には延々と、「いや、若者は案外お金持ってるじゃん」ということが語られていたりします(笑)。
本書ではその理由を次のように説いています。
若者の消費実態を俯瞰すると、今の若者は、デフレや流通環境の進化による消費社会の成熟化、情報通信をはじめとする技術進化の恩恵を受けて、バブル期の若者よりもお金をかけずに多様な商品・サービスを楽しめる環境にある。安価で高品質な商品・サービスがあふれ、娯楽も多様化していることで、選択できるモノサシが変わり、「クルマ」や「高級ブランド品」といったバブル期の若者が欲していたものへの興味関心が相対的に薄れているのだろう。
引用元:若者は本当にお金がないのか? 統計データが語る意外な真実 (光文社新書)
つまり、「若者はお金を使わない」わけでなく、お金を使わなくて済むようになり、価値観の変化により欲するものが変わってきている。また、お金を使う選択肢も増えている。企業が若者をターゲットに商品・サービスを展開する際は、それらが与える具体的な価値を訴求するとともに、単に低価格だけではなく、費用対効果の高さを実現する必要がある。
そう、価値観が大きく変化しているのです。
情報も増え、モノも増え、実質的に所得も増えている。
認識しないといけないのは、お金を使わないのではなく、お金を使わなくても良くなっているということ。
何が「エモ」くて、何が「エモ」くないのか考えるべき
若者の考える「費用対効果」についてもこれまで述べてきたことと同様です。
そのうえで久我氏のいう「変わってきたモノサシへの具体的な価値」とは、まさしく荒川さんの次の記事のような「エモさ」にあると思うのです。
このように大小はあれど、消費全般に関わってくる欲求であることは間違いない。消費によって「承認」と「達成」という欲求を満たし、ソロ男・ソロ女は幸せを感じる。消費は彼らの幸せに直結する行動であり、家族がいない彼らの生きるモチベーションのひとつかもしれない。
引用元:「エモい」は若者言葉ではない?広めたのは落合陽一さん。エモ消費時代が来る!
だからこそ、自分の金と時間を消費する対象の選択にはこだわるし、その目は厳しい。機能や性能が優れていることはもちろん前提になるし、それだけではなく、その商品やブランドの成り立ちやバックストーリーまで含めて納得をしなければ承知しない。
上っ面の感動動画広告だけでは彼らは動かないし、世間的に認知度100%の商品であろうと、それだけでは買わない。たとえその企業やブランドが好きだったとしても、何の精神的価値をもたらさないのであれば財布は開かない。好感度が高くても売れない現象などはまさにそれである。そして、以前のように、「皆がそうだから」という集団心理ではなかなか動きにくい。個々人が「承認」と「達成」とをいかに感じられるかどうかがポイントなのである。
それゆえに、一旦納得し、支持すれば長く愛用し続けるのだ。これはもはや単なる買い物の域を超え、人生の伴走者を選ぶのと一緒だ。
ソロ生活者の幸福感が低いというのは定説になっている。それは結婚規範や家族信仰により「家族によってもたらされる幸せが欠如している」という社会的暗示に依るところがあるだろう。だから、彼らはそれを消費によって打ち消そうとするし、消費の対象には、単なる所有や体験だけではない「幸せに直結する精神価値」を求める。価値を認めないものに対しては1円でも1秒でも惜しむが、一度価値を認めれば、惜しみなく金も時間も注ぎ込むことができる。それはもはや論理的に説明しろと言われてできるものではなく、「エモい」としか表現できない領域に達している。これこそが、ソロ男女たちの「エモ消費」であり、ソロ男女の大いなる消費の原動力なのだ。
ソロ生活者の人口ボリュームも消費機会も増えるソロ社会において、精神価値による「エモ消費」をどう喚起していけるか、彼らの「承認」と「達成」をどういう形で刺激できるかがが今後の大きな鍵となるだろう。
「その商品やブランドの成り立ちやバックストーリーまで含めて納得をしなければ承知しない」とか、「以前のように、「皆がそうだから」という集団心理ではなかなか動きにくい。
個々人が「承認」と「達成」とをいかに感じられるかどうかがポイントなのである。」などの一文がまさに昨今の園芸ブームの核心を突いていると感じます。
「幸せに直結する(だろう)精神価値」を求めて、その価値観に合致するのであれば幾らでも消費する。
「費用対効果」の尺度も「エモさ」の増減によるのです。
ただし、荒川さんは記事の中で「エモさ」においては理論的な説明はできないと書いています。
個々人の精神的な体感に寄るところであるから、その価値尺度を標準化することは難しいのだということでしょう。
が、それは何なのかをこそ商品を生産し販売する、川上にいる人間が考えていくべき部分だと思う。
何が「エモ」くて、何が「エモ」くないのか。
シニア世代の消費ばかりに目がとらわれていては、いずれシニアになる若者の消費動向を見逃すことになる。
そして一度見逃せば、その業界の活力は減退し、元に戻るには時間を要するだろう。
なぜなら、いまがその状態だから…。
なぜ若者は、こんな植物を買うのだろうか?
なぜ書店には、こんな植物の特集をした書籍が増えているのだろうか?
まずはそこから考えてみるべきではありませんか。
いや、考えるだけでなく、体感すべき。
いますぐ。
この記事は2020年2月26日、noteに投稿した記事を加筆・修正したものです