2019年末、インフルエンザにり患し、悪寒に震え、度重なる咳のために背中を痛めた…。
そんな苦しみの中で偶然、面白い記事を読ました。
「ヒト消費」ってなに?
「ヒト消費」から「コト消費」へ!?
「モノ消費」から「コト消費」へと変化したように、いまは「ヒト消費」に変わっているのではないかという指摘です。
そんな傾向をマーケティングの専門家が「モノ消費」から「コト消費」へとお金の流れが変わっているのだというのですが、本人たちに話を聞くと「コト消費」という意識がないのです。
じゃあなぜアプリに課金して、映画を見て、食事をして、タクシーに乗るのかというと、彼ら、彼女たちの意識としては消費の大半は交際費だと認識しているのです。
見たい映画だから観に行くわけではなく、おいしいから食べに行くわけではなく、楽をしたいからタクシーに乗るわけではない。そこにいる人と一緒にいることができるから、その体験が共通の話題や記憶になるから「コト消費」をする。いいかえるとやっていることは「コト消費」に見えても消費のきっかけはむしろ「ヒト消費」なのです。
そう考えると、まったく違う3つの出来事がひとつのキーワードでつながってきます。若い世代は「モノ消費」だけでなく「コト消費」にもそれほど関心が無い。でも「ヒト消費」にはお金をとても使う傾向があるのです。
引用元:日本の若者たち、「コト消費」から「ヒト消費」に激変していた…!(鈴木 貴博) | マネー現代 | 講談社(1/5)
読んで妙に腹落ち。
僕もここでいう若者のひとりであるとは自負しているものの、誰かと時間を共にするとき、そこまで露骨な「交際費」選定はしていません。
映画を観たなら「レジャー」だし、食事をしたのなら「外食」とだけ家計簿に記す。
もっとも、誰かと時間を共にするような趣味を持ち合わせていない(僕のブログやnoteの内容でお分かりかと思う…)ので、交際費に当たる消費は恐らく比較的少ないはずです。
「コト消費」を促すためには劇的な体験を
ただ、園芸における「コト消費」に関して、思うところがあります。
先日のブログにも記しましたが、継続的に「コト消費」を促すには、消費者に劇的な体験を提供することが大前提だと僕は考えています。
鉢物園芸の場合は「①所有」→「②体験」→「③活用」の一連のフェーズを通してはじめて「植物を育てる」という行動様式が完結します。
つまり、植物を買う→栽培する→SNSなどにアップするなどの行動を行ったうえで、「植物を趣味にしている」と他人に表明することができる。
ここに存在するのは基本「一人称」である消費者本人であり、第三者が介入する余地はあまりありません。
なぜなら、園芸が楽しいと感じる根本要因は、消費者本人による
自己の栽培領域において、植物が正常に、あるいは想定以上に生育したことによる結果、得られる高揚感や達成感
に他ならないからです。
しかし、この高揚感や達成感を得るための道のりを補助・補完させてくれるところに第三者は存在できるのです。
「ひと」がいて園芸という趣味は完結する
身の回りを思い浮かべれば、園芸仲間であったり、その植物カテゴリーを極めた先輩や師匠であったりと、活力を高めてくれるヒトが数多くいることに気が付きます。
思えば僕もそうでした。
多肉植物のイベントで植物を購入しようとしたとき、アドバイスをくれた名も知らぬ男性がいた。
植物を育てることが拠り所だと感じはじめたとき、趣味園芸について指南してくれた老舗生産者の女性がいた。
そして切磋琢磨して植物の面白さを共有できる仲間が数多くいます。
きっと縦軸は園芸という趣味であり、横軸にずらりと並ぶのは、たくさんの「ひと」がいるのでしょう。
いうなれば「ひと」は自己と対峙する上で昇華できる趣味に欠かせない「エッセンス」なのかもしれません。
そう考えたとき、一連のフェーズに当てはまるのは「③活用」です。
SNSに投稿して意見を述べ合う。
つくった作物を近所の人と分け合う。
植物をフリーマーケットで売り買いする。
そんな「③活用」に欠かせないものは言うまでもなく、「ひと」(他人)の存在です。
植物を愉しむためには、「ひと」が介在することが絶対条件。
「ひと」がいなければ、園芸という趣味は完結しないのです。
そしてさらに気が付く。
①所有する=モノ消費
②体験する=コト消費
③活用する=ヒト消費
なのだと。
生物の原初にて、細胞分裂を行い、さまざまな器官が発達するように、ものごとには原理的な段階を踏む必要があるのだと再認識したのでした。
この記事は2020年1月6日、noteに投稿した記事を加筆・修正したものです