「プロフェッショナル 仕事の流儀」をみて鷲澤さんの言葉に刺さる
番組を見た感想
遅ればせながら、観ました。
1月28日に放送された「プロフェッショナル仕事の流儀」。
ここで取り上げられたのは「ダリアの神様」と呼ばれる、秋田県の育種家、鷲澤幸治さん。
この番組をみた感想を簡潔に述べるなら、
- こういうふうにフランク(?)に話す農家って、農業に対する独自の見識や哲学を持っていて話が面白い
- 妥協をせずに、のめりこむことは良いことだけれど、悪いこともある。
僕らはそれを学んで実践するべき。 - 業界の川上の仕事が毎日の草むしりや管理に追われていることを、再認識。
実はこんな仕事があってこそ、華やかな職業が成り立つ。
けれど地味で辛い仕事であるというだけで話を終わらせるのは、筋違いだとも思う。
などなど。
ひとつひとつの感想について述べると、大変長くなるので割愛。
そのうち気が向いたら書くかもしれません。
鷲澤さんのみた、「幸せのカタチ」
で。
この番組を通していちばん心に響いたのは、中盤。
鷲澤さんの半生を振り返るシーンでのこと。
鷲澤さんは18歳で上京。
東京の船会社のエンジニアとして世界中を回った。
そんなとき、カナダ・バンクーバーの港に立ち寄った際、立派なダリアが家々を飾る場面を見て、「幸せのカタチ」をみたといいます。
食卓の上に花があったり、玄関に花があったりっていうような生活が欲しかったわけだ、オレは。
花をきれいに扱っているところはね、豊かですよ。
人間の気持ちも豊かです。
鷲澤さんのこの言葉が、僕の心にピンと刺さった。
なぜなら先日、こんなことを言われたから。
「お前らの時代は豊かだったから、苦労を知らないんだよ」
と。
一瞬、カチンと来ましたが冷静に考えると確かに僕らが育った時代(平成時代)は、豊かな時代だったかもしれない。
園芸は国家盛衰の晴雨計(バロメーター)
豊かさの指標
僕自身、これまでに衣食住に困ったことは、基本的にはありません。
とはいえ、幼少期にバブルが弾け、物心がついたときには失われた20年を生きてきた世代。
いまも奨学金の返済に追われているし、体調を崩したときに医療費を支払えないこともあった。
もっといえば、20代の収入はずっと月10万円に届くか届かないかの行ったり来たりだった…。
豊かだったかと問われれば、豊かだったと答えられるし、そうでないともいえます。
でも、その「豊かさ」って一体なんだろう。
「豊かさ」を図る指標ってあるのだろうか?
そんな言葉をぶつけられて、いろいろと自問自答していたのです。
そんなときに鷲澤さんの言葉。
少し訛った、けれど重みのある言葉を聞いた瞬間、点と点とがひとつながりになったのです。
そうか、「花」が生活と密着する暮らし、つまり「花のある暮らし」は豊かさと比例するのではないか?と。
大正15年に創刊された「実際園芸」という園芸誌があります(いまは『農耕と園芸』。)。
その創刊号の序文には、
国の盛なる時園芸は必ず栄え、その国の亡びんとする時、園芸はまず衰う。園芸は国家盛衰の晴雨計(バロメーター)である
引用元: 日本園芸界のパイオニアたち: 花と緑と、20の情熱
と書かれています。
その後、太平洋戦争に突入し、この言葉通りに園芸は不要なものとみなされ、農地は食料生産に接収されていく。
終戦後、荒寥とした国土から園芸文化が発展し、いまの僕らの花と緑があるのです。
切り花の消費額は下降中。そんなところに…
現代では切り花の需要は低下し、消費額が1997年頃をピークに徐々に落ち込んでいる状況。
追い打ちをかけるように今年は、コロナウィルスの影響であらゆる行事が中止。
使われなくなった花材がダブつき、各所から値崩れの話を耳にします。
『実際園芸』の一文を文字通りに受け取れば、国家盛衰のバロメーターは低下している一方なのでは?
いうなれば、年を追うごとに「豊かさ」が失われているのだろうと僕は思うのです。
でもだからといって消費者に「花を買ってください」と、何の提案もなしにアナウンスするのも、それはそれで持続性がない。
もっとも、花の利用法を考え、生産し、理解してもらうところまでをコーディネートするのが園芸業界の役目だと思うし、そこにはじめて需要が生まれる。
切り花も鉢物も「意味」と「価値」があってこそ存在する理由があるはず。
むやみやたらに売ったところで…とも正直、思う。
けれど、家に長く居住しなければならない状態にあるとき、少しでも花があれば、どこか心に「余裕」や「愉しみ」が生まれるのも事実。
そもそも、いま余っている花はもともと需要があった花であり、なんの活用もされずに廃棄されるのは実に馬鹿げています。
なにより勿体ない。
だからこそ実際に花を買ってみて、生活にどんな変化があるのか試してみる…。
そんな絶好のチャンスが訪れているとも言えませんか?
で、そんな体験を通して花の魅力に触れ、またもう一度、花を買ってもらえる機会になれば…と感じます。
「豊かさ」と「余裕」
前回の記事でこの状況下では、花屋さんや園芸店に足を運ぶのが憚れる、と書きました。
そしていま、この放送を観てから「豊かさ」について考え、どこか「余裕」がないことに気が付いたのです。
あらゆる意味において、自由に花を買える状況にない、と…。
ってことは、ちょっと待てよ。
僕らはこれから、いろいろなものを失っていくような気がしてならないのです…。