清順さんのクリスマスツリー問題。前回はこの問題に関して、従前とは違う「植物を活かす」方法を取る清順さんに世間が困惑しているのではないかと投稿しました。
ネット上ではまだ、様々な意見が交わされています。
儲からないから伐らない!伐れない!!拡大造林政策
犠牲になったのは…
そのなかのひとつに、こんな記事が掲載されました。
このイベントは気持ち悪くとも、それを気持ち悪いと思わない人たちや、それを主催したり支援したりする人たちの利益になる。このイベントは別に誰かに犠牲を強いているのでもなければ、誰かをバッシングしているのでもない。ただ、産業用には普通に切られる木を切って、根っこごと神戸まで運び、クリスマスツリーにするだけだ。犠牲になったのはあすなろの木だけである。
一方で、このイベントを大げさな嘘をついてまで卑下する人たちは、まずこのイベントで得られるはずであった利益を失わせている。予定であったバングルは販売が中止されるなど、少なからず問題が発生している。(*4)
また「こんなことを考えるのは日本人じゃない」などという中傷も見かけたが、こうした言葉は、西畠氏だけではなく、このイベントに協力をしてきた多くの人たちに対する侮辱であるといえる。
著者の赤木智弘さんはこのイベントを批判するに足りる理由を聞いたことがないとし、批判される理由がデマによるものである場合の空疎な議論に疑問を投げかけています。犠牲になったのは「アスナロの木」だけではないかと…。
大きな木は儲からない!?
そう、このイベントのいちばんの犠牲は「アスナロの木」。そして、アスナロの木を利用できなかったことによって失われた利益があるのではないかといった意見も。
いくつか誤解を生んだ点を説明している。「ご神木ではない」「根ごと運んだ理由」等々。それはいいのだが、その一節に
「営利目的ではありません。そして、あすなろのその後について。」
とある。つまり非営利の事業であり、このプロジェクトを行ったことによって自分は億単位の赤字を背負うこと……とある。
これはイカンだろう。関係者皆がしっかり利益を上げてこそ、この木が活きるのではないか。(本当に億単位の赤字が生じるのなら、倒産しかねない。おそらく元を取る算段はしているはずだ……。)
このメッセージによると、事業総費用は約3億円で、アスナロの木は60万~100万円だという(はっきりした額を知らないのはどうかと思う)。ヒノキなら300万~400万になったかも、とある。
たしかにアスナロは、そんなに高価格の木ではない。ただ腐りにくく、木の香りが強く、強度もあり、非常に優れた木だ。それなのに木肌がヒノキほどきれいではないというだけで価格が落ちてしまう。現在、林業界で最大の問題は、材価の下落だ。どんどん価格が落ちて、一頃の3分の1ぐらいになってしまった。そのため森林経営が立ち行かなくなった山主は数多い。しかも太い木ほど価格が安くなるという現象さえ起きている。太すぎると製材機に入らないからだ。
何十年、ときに何百年もその木を育て守った山主が受け取る金額があまりに少ないと、森をつくり守る気概が失せるだろう。伐った跡地に再造林もできない。
だから、このアスナロの巨木に敬意を表するなら、十分な金額で買い取ることが山のためになったのではないか。そして山主だけでなく、森から掘り出した人、運搬に関わった人、そして企画した自身も含めて、みんながそこそこの利益を上げてほしい。ぼろ儲けは困るが。
「営利事業ではない」と威張られたら、森づくりをする人はいなくなる。ちゃんと収支が合うことを示してほしい。そして、みんなが幸せになれる程度の利益が上がることを示すプロジェクトであってほしかった。
この意見は清順さんのメッセージに対する意見ではありますが、木を十分な価格で買い取り利用しなければ林業の衰退は止まらないよ、ということでもあります。
多かれ少なかれ、清順さんがアスナロの木をツリーに仕立てたことによって、林業への問題点をフィーチャーする記事も出てきました。
拡大造林政策ってなに?
以前、このブログでこんな記事を投稿しました。
昭和35年前後の丹沢の写真が展示されていたのですが、見て驚いたのは多くの山々がはげ山だったこと。その理由は戦後の復興期に建築材料として木材の需要が高まったから。そして「薪炭」に使われていたから。つまり材木や燃料として山の木々が切り出され、現在の丹沢よりも非常に見通しのよい景色が広がっていたのです。
ではなぜ現在、これらの木々は利用されなくなったのでしょうか。
その背景には、昭和30年代以降、政府の推し進めた「拡大造林」という政策がありました。天然の広葉樹を伐採し、より価値(利便性)の高い針葉樹へと活発に置き換えられるのです。
里山の雑木林等の天然林の価値が薄れたため広葉樹は伐採され、建築用材等になる経済的価値の高いスギやヒノキの針葉樹に置き換える拡大造林は急速に進みました。このスギやヒノキの木材価格は需要増加に伴い急騰しており、木を植えることは銀行に貯金することより価値のあることのように言われ、いわゆる造林ブームが起こりました。この造林ブームは国有林・私有林ともに全国的に広がり、わずか15~20年の間に現在の人工林の総面積約1000万haのうちの約400万haが造林されました。
引用元:日本の林業の現状
ところが、同時期には家庭で利用されるエネルギーが「薪」などから電気・ガス・石油へと徐々に切り替わります。昭和39年には需要の高まる材木を確保しようと木材の輸入が全面自由化に。外国産の木材(外材)は大量に確保でき、安価でもあることから着々と普及します。
結果、昭和30年には材木の自給率が9割だったものが、現在では2割に。木を植え、草を刈り、枝を折り、生育に邪魔な木を倒し…そして育った木を伐り搬出する。この工程を得てやっと市場に出されても良い価格で買い取ってもらえない。採算の取れない林業は衰退するとともに、職の限られる若者は都市部へ向かい、里山は荒廃。地方は過疎化するのです[*01]…。
木を利用することは正解とするべきでは?
「木の全利用」を応援したい
ハナシは本題へ。清順さんのクリスマスツリーは富山県の氷見市から移送されたもの。その金額は3億円とも言われ、清順さんが負担したとのこと。そしてポイントは、公開終了後、木を残さず利用しようという判断です。
前回の投稿に書いた通り、この結末を知った当初は惨いことをするなと感じました。
けれど僕なりにたどり着いた着地点は、多くの批判を集めるなかでも清順さんの進める「木の全利用」を応援したいと思うということ。
清順さんの植物を「切る」思想
清順さんのプロジェクトはファン[*02]である僕からしても、準備が稚拙でロジックが弱い。けれどもプロジェクトの根にある「植物を切る」という思想は以前から清順さんが唱えてきたことであって、僕もご本人からその内容を聞いたことがあります。
詳しくは下記の投稿に記録しましたが、一部を抜き書きします。
講演会でのこと。今回と同様に「植物を運んで来たら可愛そうではないのか」という意見があることを認め、これに対して清順さんは、
それはすごい人間本位。
大事なのは誰かのために運ぶ。
植物を「活かす」ことが大事だと思っている。
と語ります。また、装飾に使われた植物はどうなるのかという質問に対しては、
本質は消費するということ。全部植物の死体。すべて、身の回りのものは。それで生死を繰り返す。最後は土に還す。人間のエゴだけど、それを理解してやっている。
僕らは自然を大切にするように言われるが、それだけは言わないようにしている。それを言った快感はあるけど、そういう人たちは自然をどれくらい消費しているか知らない。でも誰もそんなことを言える権利はない。環境(に関する研究)をやってる人が本当に植物好きなのか?という…。
この理念しかない。一人でも植物好きを増やして、多くなれば世界を変えられる
とも。
清順さんはまず「人の心に植物を植える」ことから立脚し、その次に現在のクリスマスツリー問題とも絡む「消費」の観点を人々に問いただしているのだと思うのです。そして最後には、これらのフェーズを乗り越えた人たちが環境問題などと対峙し、本気で「植物で世界を変えよう」と考えているのではないでしょうか。
炎上は清順さんの思惑通り?
だとすれば今回の炎上は清順さんの思惑が合致し、終始「植物に思いを馳せよう」と発言する清順さんの思うつぼのままに盛り上がっていることにもなります。清順さんがチランジアのウスネオイデスを真冬の戸外で装飾したことについても、多くの批判が上がっていますが、かえってウスネオイデスの栽培方法が周知されたのではないでしょうか。
故に、アスナロの未来は「未定」となっていますが、沈静化を意図する利用ではなく、世間からバッシングを受けてしまうような形での利用となるかもしれません。しかし、そこまでしなければ日本の林業の現状を問い直すこともなかったはず。
植物を利用しようということからのスタート
今後、清順さんがどのようなアクションに出るか、現段階では分かりませんが、この問題に正解はないのかもしれません。むしろ、不正解続きの林業にあえて食い込んでいった清順さんを称賛したいです。人工的に造林された森林資源が量的にも豊富となり、今使わなければ…という段階でこの動き。植物を利用するという意義においては正解とするべきです。
前回の投稿で「いっちょかみするとやつと同類だ」というコメントを頂きましたが、心配はご無用。すでに植物好きを増やそうという点では同類だし、植物の可能性を見出そうという点では、立場や方法は違えど同じ方向を向いています。でなければ飛んで火にいるなんとやらな真似はしません。
そして僕らは、清順さんというフィルターを通して、植物の周辺にぐるぐると思考を巡らせることができる。今回は逼迫する国内の材木をどのように利用するかという具体例の提示であり、清順さんが与えてくれたせっかくのチャンスです。別の視点からみれば、もっと話題に挙げるべきで、より深く植物について、ひいては日本の林業について考えていきたいものです。