いま我が家では、庭に植えてある「イチョウ」を切るか切らないか、揉めています。
お婆ちゃんに貰った「イチョウ」が大きくなりすぎて。
何でも冬になって葉が落ちると、隣家の敷地内に落ち葉が入っていくのを申し訳ないからだそう。それについての異論はないのですが、家人は尋常じゃないほどの枝葉を切りたがるのです…。
前回もこのブログに書きましたが、某所の街路樹は極端に枝葉を切り詰められ、その結果、体力がなくなり立ち枯れていきました。
普段、植栽を管理しているプロでもそのような過ちを犯す[*01]ワケで、僕ら素人が一本の棒になるくらいに枝葉を落とすのはリスクが高い。
毛虫と一緒に葉を落としたレモンの木
以前、我が家には1本のレモンの木が植えられていました。毎年、1~2個の実をつけ、近所の方からも「立派ですね、これからが楽しみだわ!」と評判が良かったのですが、ある年、葉に毛虫が大量について気持ちが悪いからと家人が枝葉を切り落とし、丸坊主にしてしまったのです。
僕は坊主になった木を見て「大丈夫なの?」と不安に駆られましたが、時すでに遅し。春に毛虫を落とした枝からは、小さな葉がポツポツと生えてくるだけ。実をつけるどころか、季節外れの台風で根こそぎ倒木。驚いたことに、あれだけ頑丈だったレモンの木の根がほぼ消失していたのです…。倒れた木を見れば幹もスカスカ。
どんなに丈夫な植物でも、葉がないと1年も経たずに枯れてしまうことを、このとき痛感したのです。
でも、よく考えたら当たり前なこと。僕らだって飲み食いしなかったら3日と持ちません。同じように植物も光合成をするための葉を切り取られては、基本的には生きていけません。それから家人には「木を切るときには、とりあえず僕に声かけて」と言ってあります。
そしていま、切りたいというのです。
お婆ちゃんからもらったイチョウの木
実は切ろうとしているイチョウは、僕に園芸の面白さを教えてくれたお婆ちゃんから譲ってもらったもの。当時、横浜の住宅街の一角、小さなプラ鉢に植えられたイチョウの木はあまりに細く、弱々しく、普段、街路樹で目にするそれとはかけ離れた姿をしていました。
お婆ちゃんは植物に興味を持った僕に、風が吹いたら折れそうなイチョウを持っていけと渡したのです。帰宅後、どこに置くでもなく、とりあえず地植えしたその木は、恐るべき速度で生長し、僕の身長をあっという間に超えていきました。夏には2階のベランダ付近にまで先端が到達。笑ってしまうくらい良く伸びた。
ところが、上に伸びたぶん剪定をするのが難しく、仕方がないので手の届かなくなった先端を切り落とします。すると今度は横から枝を伸ばし、まるで千手観音のように四方八方に広がっていくのです…。仕方がないので隣家側に伸びる枝を丸々切り詰め、自宅へ伸びる枝を生かすという、ツーブロックヘアのようなスタイルに。
生きることに必死なイチョウは、伸ばせるところにはどんどん枝を伸ばしていきます。夏になると、僕が狭い庭を移動するたびに顔や腹にイチョウの枝が刺さる刺さる(笑)。でも、横浜であんなに小さく、あんなに細く、何年間も縮こまって生きていた姿を思い出すと、爆発するように伸びる姿が嬉しくて仕方がないのです…。
でも、そういういちばん重要な部分が実は、植物に関心のない人にはいちばん理解されにくい。
今朝、両親が四方八方に伸びたその手を、バチバチと切り落としていたのです。それでも日頃から「枝を切ると枯れるから全部は切るべきでない」と家人に伝えてきたので、多少の枝は身近く残っていました。イチョウは切り詰めても平気だとの意見はありますが、果たして、今年の夏が若干心配です。
イチョウは庭木に適さない。どこか不吉なその理由…。
ところでイチョウを植えてしばらくすると(というか最近)知ったのですが、イチョウは庭木には適さない。むしろ植えてはいけない植物なのだそう。理由は言わずもがな、大きくなって庭に影を落としたり、手入れが大変だから。
またこんな風にも言われているそうです。
『日本俗信辞典 動・植物編』
引用元: 神社で植えられている樹木に「ムクロジ」や「イチョウ」があるが、宗教的・縁起的な意味があるのか? | レファレンス協同データベース
p.36 「イチョウは、庭木にすると不吉である。病人ができる。人が死ぬ。この木を忌む理由として、お寺に植える木だからという。位の高い木として俗人の家には植えられぬという。神木だから俗家に植えると主人が死ぬ。代々不幸が続き、家の下に根が入ると病人が絶えぬなどという。財産が減る。
読めばかなり不吉。しかしながら確かに、家人が切ろうとしていることに納得もしています。ここ数年間、母は病気がちで精神的にも問題を抱えています。そんな母がイチョウを切りたいというのです。
ここはもう、僕のような頭でっかちな人間ではなく、直観で生きる女性として、母のほうが正しい場合もあるのかもしません。理性で判断するのではなく、感性で生きてきた母。今朝、もっと切りたいと僕に懇願してきたときも、そこに何かを感じました。
植物と人間との折り合い
植物は生きています。生きているからこそ手塩にかければその分、反応があります。愛情も生まれます。けれども、その場から動かず、あえて人間が積極的にメッセージを読み解く必要があるからこそ、理解の行き違いで第三者との齟齬も生まれます。
僕がイチョウから受け取るメッセージと、母が受け取るメッセージに違いがあるのかもしれません。
街に植わる樹木はその最たるもので、誰かの利権や感情が複雑に絡み合っているのも事実。街路樹を楽しみながら行く人と、そこの掃除や管理をする人との捉え方もきっと違う。植物を育てる以上、人間と植物とどう折り合いをつけていくのかが難しいところのようです。
僕はお婆ちゃんとの思い出も大切ではあるけれど、それで母が納得してくれるのなら、切っても良いと今は考えています。どちらにしろ、両者が納得できる妥協点を探っているところです…。
- 道路を整備する業者が樹木の剪定をする場合もあるそうです。 [↩]