先日、私用で群馬県へ行ってきました。車で目的地へ行く途中、なんとコンニャク畑に遭遇したのです[*01]!。
僕がコンニャクに興味を持ったきっかけは…
群馬県で「コンニャク畑」を目撃
その帰路、とある施設でコンニャクの木を見つけ、大興奮。地元の神奈川県では種イモが売られているのを目撃したことはありますが、木のようになっているコンニャクを間近で観察するのは恐らくはじめて。
昨年から当ブログでも何度が記事にしていますが、武内孝夫さんの著書「こんにゃくの中の日本史」という本を読んで、こんにゃくの奇妙さにさらに惹かれたのです。
そもそも、おでんやおせち料理の具となっている蒟蒻が、奇妙な姿形をした植物から造られているなんて、20数年間の人生で知りもしませんでした。
ただただ、製品化された蒟蒻が、何食わぬ顔で食卓に上り、味気ないまま食感を楽しむくらいで消費されていく…。ところが、そんな蒟蒻のことを調べていくと案外面白く、蒟蒻に対する見方が変わってきたのです。
きっかけは「ショクダイオオコンニャク」
きっかけは「ショクダイオオコンニャク」。世界一大きい花が開花と報道された昨年、ショクダイオオコンニャクを調べていたときのこと。
当然、日本国内で栽培されているコンニャクの情報も入ってきて、むしろそっちのほうが気になってしまう。なぜなら、
- 食卓に上がるまでは3年以上もの栽培期間が必要
- 冬が来る前に畑からコンニャク芋を掘り起こす
- 蒟蒻に入っているブツブツの正体は、蒟蒻らしくするために「ひじき」などに海藻をわざわざ入れている
など、意外な発見が相次いだのです。身近にコンニャクを栽培している農家をみたことがないし、ただでさえ食卓の主役とはなりにくい蒟蒻です。それゆえか知らないことが多すぎる…!
そんな謎多き「蒟蒻」を頭の片隅に置きながら1年間を過ごし、ようやく(?)コンニャク王国である群馬県でコンニャクを目撃。少しずつコンニャクの謎が解けてきています…。
コンニャクの歴史と相場
芋を「荒粉」にするという発明
もとは茨城県の中島藤右衛門が安永5年(1776年)に発明したコンニャク芋の製粉製造法の普及が蒟蒻を広く一般的な食材にしたのがはじまり。
コンニャク芋を輪切りにし、1週間天日に晒す。その乾いた芋のチップを「荒粉(あらこ)」といい、これを粉にしたものを「精粉」と言います。この製法は現在も機械化が進んだだけで、当時と基本的には変わりません。
そして、精粉をもとに水や石灰を混ぜながら煮て固めます。ところが、精粉から製造したこんにゃくには、手作りのときに含まれる「皮」が含まれず白い。いわばつぶつぶがないのです。試行錯誤のうえ蒟蒻らしくするために海藻を入れる…という工程のうえ、イメージ通りの「蒟蒻」が食卓に並ぶのです。
この精粉された蒟蒻粉には「マンナン」と呼ばれる多糖物質が含まれ、これが石灰などのアルカリ物質と結合することで固まります。マンナンの純度が高ければ高いほど「良い粉」、すなわち高値で取引されるコンニャク粉なのです。
コンニャク粉は「投機商品」
また、コンニャク粉は粉にすることで保存が効き、その性質から「投機商品」としての顔を持つようになります。
こんにゃくの他の農作物との大きなちがいは、そのままでは食用になりえず、いったん粉という原料にしなければならないことだ。その粉にするために中島藤右衛門が考えたのが、荒粉という切干にする手法であったが、製粉技術が伝えられると、農家ではこんにゃく栽培だけでなく、収穫したイモから荒粉づくりまでをおこなうようになった。
(中略)
なぜ農家で第一次加工の荒粉までつくりようになったかというと、単純にそのほうが生イモよりも高く売れたからだ。しかし、それだけではなく、もう一つ重要な理由があった。
乾燥させた荒粉は、生イモとちがって保存がきく。そこで、こんにゃく農家は秋にイモを収穫すると、初冬にかけて庭先で一家総出で荒粉づくりに精を出し、原料問屋の買い出し部隊である仲買人にそれを売ったが、一度にまとめて売ってしまうことはなく、荒粉をある程度ストックしておくのを常とした。そうして物入りのときに荒粉を売って現金に替え、一年間のやりくりに用立てたのだ。荒粉はこんにゃく農家にとって、いわば引き出し自由な貯金のようなものだった。
引用元:こんにゃくの中の日本史 (講談社現代新書)
とあります。
コンニャクは病気に弱く、相場の変動も激しい。品薄になって相場が上がれば農家はチョビチョビと荒粉を売って、相場が下がるとドバドバと一斉に手放します。
一方で仲買人も同じようにストックを持っているし、いかに問屋へ高く買ってもらうかを考える…。こうして昭和20~30年代はコンニャク粉の価格が乱高下を繰り返すのです。
群馬県はコンニャク王国
現在、国産の蒟蒻の生産はなんと、群馬県がダントツのシェア90%。江戸中期以降は水戸藩をはじめ茨城県がコンニャク生産が栄え、明治になると各地へと広がります。群馬県に伝わったのもこの頃で、南牧村のコンニャク栽培はその頃から本格的に始まるのです。
コンニャクは寒さに弱く、秋に掘り取り貯蔵し、再び春に植えつけます。さらに夏の直射日光にも弱い。その点、南牧村は山間地で田んぼは一枚もありません。しかし、南斜面にコンニャクを植えれば、掘り取らなくても土中で冬を越す土地という好条件がある。さらに養蚕のために植えられたクワが日差しを遮り、コンニャク栽培にはもってこいの地だったのです。
この頃、南牧村で栽培されていたのは「在来種(和玉)」と呼ばれるコンニャク芋で、マンナンの含有量は豊富だったのですが病気に弱く、肥大率が悪いうえに平地での栽培には不向き。
そこで昭和40年代に中国から輸入した「支那種」と「在来種」を掛け合わせ「はるなくろ」や「あきぎおおだま」というコンニャクが誕生。これも群馬県の農業試験場で作出。マンナンも豊富で病気に強く、肥大率も良いコンニャク芋が採れるようになったのです。
機械化と安価な原料の輸入の果てに
以降品種改良や機械の導入などにより、傾斜地でなくともコンニャクの栽培がおこなわれ、コンニャク業界も発展するかと思いきや…。
それまでのこんにゃく農家は、南牧村のような山あいの狭い耕地にイモを育てて荒粉にし、目端を利かせてそれを巧みに売ることで実際の収穫以上の利益を栄養とする半農半商の人びとであった。山間辺地ゆえに量産は望めず、そのかわり機転と商才で利益をふくらませる。もともとこんにゃくとはそういう性格のものであり、日本の痩せた山国の知恵が生みだした特異な産物だった。
乾燥機の普及と産地の移動は、こんにゃく本来のそうした性格を変えていったが、同時に業界の流通・生産体制に問題をひきおこすようになる。農家で荒粉づくりがおこなわれなくなると、それまで産地にあった在庫のダム機能が失われ、秋になるとイモは原料業者のもとへなだれ込み、山と積まれたイモはただちに精粉されるようになった。しかも前述のような機械の増強により、またたくまに粉にされるため、原料業者は大量の在庫を抱え込み、結果的にそれが安売りを生むこととなった。
引用元:こんにゃくの中の日本史 (講談社現代新書)
さらに拍車をかけるようにインドネシアや中国から安いコンニャク粉が輸入され、相場の安定化が図られます。ところが安定化を図ると、コンニャク業界はどんどん斜陽化してしまうのです。平成に入ってからは昔のような高値をつけることもなくなりました。
いまとなっては結果論ではあるが、こんにゃく業界には相場変動があったほうがよかった。というより、なくてはいけない。相場変動があればこそ、農家、仲買人、原料業者の各段階で在庫を抱え、ほどよい流通体制をつくりあげ、結果的に適正価格が維持できたからである。相場変動をなくしてしまえば、各段階とも取扱量をふやして利益をあげようとし、過剰生産を生み出すことになる。
つまり、こんにゃく業界にあって相場変動は、流通・生産体制の絶妙なバランスを保ってくれていた。いわば不健全といわれてきた相場変動と投機性が、じつはこんにゃく業界の健全機能をつくりあげていたのだ。
引用元:こんにゃくの中の日本史 (講談社現代新書)
産業の発展により機械化が業界に浸透した結果、それまで多くの人の多くの手を使っていたことがなくなり、一部の人だけが如何に低コストで大量の商品を流通できるかを競う時代に。資本主義の闇はコンニャク産業にも影響を及ぼしていたのです…。
ショクダイオオコンニャクの報道に触れなければ…
あのショクダイオオコンニャクの開花がなければ、僕はコンニャクをめぐって日本にこんな歴史があり、こんな産業があったことを知りませんでした。
食卓にのぼる奇妙な食感の蒟蒻は何も語ることはありませんし、コンニャクの木はただただ奇妙。けれどおでんやとん汁に灰色のプニプニとしたものが入っていなければ、つい探してしまう。なければ残念な気持ちにもなります…。
「植物のコンニャク」も「食材の蒟蒻」もどこか気になる存在だし、かといってコンニャクのことを真剣に考えることは普通に生活している分には、まずありません。きっとそんな存在感がコンニャクのベストポジションな立ち位置だし、だからこそ「こんにゃくって面白い」と気づいた人へ、こんにゃく自らの特徴や栽培方法をアピールしてくれないのかもしれません。それが面白いと思ういちばんの理由なのですが…。
次は是非ともコンニャクを栽培したい!…って、昨年も同じことを言っていたっけ…(笑)。そうそう。それと、こんにゃくパークにも行きたい…!
参考文献
蒟蒻の歴史が事細かに記されていて、読んで止まらくなります。コンニャクの栽培についてはほとんど書かれていませんが、現地への取材や膨大な資料に基づいて構成されているため、この本一冊で、日本のコンニャクの歴史がまるわかりです。
その他、意外な利用法やコンニャクを待ち受ける困難など、これまでの蒟蒻産業を俯瞰できます。
この本を読んで、僕もコンニャクの生産地などに足を運んでみたくなりました。
- いえ、ゼリーのほうじゃありません。コンニャクを栽培しているほうの畑です… [↩]