辻村植物公園を歩いたら、辻村兄弟の情報を知りたくなった。

ある日の午後。時間が空いたので久しぶりにボタぶらりに出かけようと思い立ちました。以前から気になっていた「小田原市久野」付近を目指します。

「辻村植物公園」にたどり着く

ナビに現れた「植物公園」という文字にひかれて…

着いたのは、ここ。

「辻村植物公園」です。

何気なく車を走らせていたら、偶然ナビに「植物」と表示されたので、ついつい引き込まれてしまったのです…。こんなところに植物公園が存在していたとは、まったく知りませんでした。駐車場に車を駐め、少しだけ散策。

駐車場の奥には「太陽の丘」と呼ばれる、神々しい空間がありました。

何か儀式でも行われるのか?というような異空間。もし、この場所が何らかの形で埋もれ、数百年後に発掘されたとき、未来のひとたちはモニュメントの意味を理解するのだろうか…。この並んだ石の意味を導きだせるのだろうか…。そんなことを考えてしまいます。とはいえ、異国情緒漂う風景を味わうことができました。こういう場所、僕はかなり好きですよ。

辻村植物公園の由来

次に、辻村植物公園の園庭。入り口にはこんな看板が立っていました。

暇だったので文字に起こしてみると…。

辻村植物公園の由来

この地は、以前辻村農園と呼ばれ、広い梅園を中心として、珍しい外国産樹木が散在する静寂な地でありました。
辻村農園は、明治末期辻村常助・伊助の兄弟によって開かれ、大正八年にこの地に移った。もとの農園は、現在の小田原駅の地にあり、当時まだ珍しかった西洋の草花が栽培され、小田原町民に親しまれていたが鉄道熱海線(現在の東海道線)が国府津から小田原まで敷設されることとなり移転したものである。
辻村常助は、花卉園芸の先駆者の一人であり西洋草花、花木など我が国への導入に功績があり、また外国産樹木の種子を輸入して、この地で試作し現在その一部が残り、今や樹齢七〇有余年に達し、この地の景観に珍しさを添えている。
なお、伊助は登山家として知られ、スイス日記などの著書があるが、関東大震災(大正十二年)の山崩れによって、箱根湯本にいた伊助一家五人は、禍合した。

昭和六一年、小田原市はこの地を辻村克良氏から譲り受け、自然の景観と貴重な直物の保全はもとより、これら特異な植物による教育性をも含んだレクリェーションの場として辻村植物公園(面積四、七ヘクタール)を整備したものです。

小田原市

歴史のある場所だったのですね。ただ、ネットの情報だけでは「辻村兄弟」が日本の園芸界にどのような功績を残したのかまでは書かれていません。いずれ細々と調べてみます…。

「スイス日記」の辻村伊助

ただ、弟の辻村伊助氏は「関東大震災」での山崩れで伊助氏とその家族は亡くなってしまったそうです。Wikipediaには、

辻村 伊助(つじむら いすけ、1886年4月22日 – 1923年9月1日)は、日本の園芸家、登山家。

神奈川県小田原町(現・小田原市)生まれ。東京帝国大学理学部農芸化学科卒。学生時代から登山を行い日本アルプスを踏破。1906年木曽駒ヶ岳・宝剣岳でタカネスミレの新産地を発見。1913年渡欧し、翌年、近藤茂吉とグロース・シュレックホルンに登頂した際、下山中雪崩で重傷を負う。入院先の看護婦ローザ・カレンと結ばれ、1921年帰国、小田原高等女学校で英語を教える。箱根湯本に高山植物園を開いたが、1923年関東大震災で裏山が崩れ、夫人、3児と共に埋没死。3年後の1926年に遺骨が発見され、比叡山延暦寺に納骨された。

引用元:辻村伊助 – Wikipedia

と書かれています。

ついこの間、あのジブリ映画「風立ちぬ」を鑑賞し、劇中に描かれる発震シーンなどが目から離れない…。そのためか、ここ神奈川県における関東大震災も激烈な災害だったのだと感じずにはいられません。関東大震災から90年後を生きる僕らには、当時の歴史から学ぶべきものがあるような気がしてなりません。

もっと彼らを知りたくなった

と、話が蛇行しましたが、結論です。

園内が思いのほか広くゆっくり歩いて回ることができませんでした。夜から用事があったため、早々に切り上げ帰宅。カメラのデータをあさってみましたが、ロクに植物を撮っていませんでした。

それにしてもコレ…。

猿が出る!イノシシが出る!そして犬!!(笑)。サファリ―パークかな?

今度行くときはもう少し「辻村植物園」と「辻村兄弟」をリサーチして、ゆっくり散策してみます。歴史と緑を感じよう。

この記事を書いた人

mokutaro

植物好きが高じ鉢物業界に飛び込んだアラサー男子。群馬県に移住し、毎日、食べ(られ)ない嗜好性の強い植物とまみれています。 園芸を考えるブログ「ボタニカログ」を運営中。