約1週間、あの講義はなんだったのだろうかと考えていると、ぼんやりと新たな問いが見えてきたのです。
園芸探偵松山誠(マツヤママコト)さんの講義を受ける
松山誠さんのこと
2021年1月13日。
「SOCIAL GREEN DESIGN」という活動の中で行われた講義「SOCIAL GREEN TALK」。
その1つに「園芸探偵」の松山誠さんの講演がありました。
以前から、松山さんの記事を、誠文堂新光社『農耕と園藝』のオンラインサイト「カルチベ」で拝見させていただいていました。
どの記事も濃厚で読み応えがあります。
そんなある日、とあるきっかけでこのイベントの存在を知り、オンライン講義を受けてみたのです。
講義のタイトルは、
花壇の事件簿~人は「花どろぼう」を許せるか
というもの。
ユニークなタイトルである一方、タイトルだけではなかなか内容を推し量ることができません。
ですが、実際に講演をきけばなるほど、あらゆる点と点が線で繋がります。
講義内容
ざっくりと僕が印象に残った内容を記すと、
- 「花盗人」「花泥棒」という言葉は平安時代から存在し、雅で美しいものをとる行為であるからこそ寛容な心で許されていた
- 初期の日比谷公園は「官」が管理するものであり、その目的は庶民の「公徳心」を育てるものでもあった
- 名古屋などの地方には開店した店の前に花を飾り、その花をとっていく「花抜き」という行為がある
- 1990年の大阪花博では装飾された植物をとられる、集団的な「花抜き」が起こる
- そのいっぽうで1964年のオリンピック開催にむけて、「街をきれいにする運動」が盛んに。聖火ランナーの通る街道にプランターなどに花を植えた。いつしか全国規模の活動になる。
が、ここでもプランターごと盗まれてしまうこともあった - 1960年~80年には園芸ブームが興り、70年代には山野草などが採掘されるように。
「とっていいのは写真だけ 残していいのは足跡と思い出だけ」というスローガンもこのとき聞かれるように - 園芸ブームのころより、園芸商品の工業化が発展し、流通も広域に。
家でタネや苗を育てていた人たちがホームセンターなどで購入するという、家庭園芸の「外部化」がはじまる - 90年代から現代にかけて新しい公共が成り立ちはじめる。
昨今はSDGsなどが盛んに叫ばれるが、花業界も第3の組織(サードセクター)として何ができることがないかと模索している
など、あらゆる資料を提示し、どれもが奥深い内容です。
花を「コモンズ(共有財産)に
講演の終了後、質疑応答の時間。
なぜ松山さんはこの議題にしたのか問われると、
- 花屋の店頭に立っていると、よく花(植物)を盗まれるということを聞いたから
- これから花を育てようとするひとが、そんな「事件」に巻き込まれてもショックが和らぐよう心構えをしてもらいたいから
とのこと。
そのときは園芸初心者のようなひとのためにありがたい講義だったんだ!などと思っていましたが、よくよく考えると、訴えたかったのはそんなフワフワしたことではないのではないか?
もう少しスケールの大きな問題提起を松山さんは投げかけているのではないか?と気が付いたのです。
あとでウェブサイトを見返すと、この講演のサブタイトルに小さくこう書かれています。
花を「コモンズ(共有財産)」として開放するために歴史や実例を参考に心の準備をしよう
つまり、心の準備をすることが目的ではあるのですが、その上位目標に花をコモンズ、つまり誰のものでもない「共有財産」とするためにはどうすれば良いのかということが大上段に来ているのです。
講義内容を振り返れば、どの内容も「花の所有は公か私か」ということが奥底に流れていることに気が付きます。
講演ではそのことについてあまり語られてはいませんが、これはとても重要な視点であり、今後僕らはますます「コモンズ」という視座から花を捉える必要が出てくるのだろうと思うのです。
「コモンズ」とは
まず、コモンズとはなにか。
マルクスの資本論を環境問題と照らし合わせて、これから人類ははどう生きていくのかを提案するベストセラー「人新世の「資本論」」には、
土地は根源的な生産手段であり、それは個人が自由に売買できる私的な所有物ではなく、社会全体で管理するものだったのだ。だから、入会地のような共有地は、イギリスでは「コモンズ」と呼ばれてきた。そして、人々は、共有地で、果実、薪、魚、野鳥、きのこなど生活に必要なものを適宜採取していたのである。森林のどんぐりで、家畜を育てたりもしたいたという。
引用元:人新世の「資本論」 (集英社新書)斉藤幸平
と解説されています。
また「入会地」について、Wikipediaによると、
入会地(いりあいち)とは、村や部落などの村落共同体で総有した土地で、薪炭・用材・肥料用の落葉を採取した山林である入会山と、まぐさや屋根を葺くカヤなどを採取した原野・川原である草刈場の2種類に大別される。
引用元: 入会地 – Wikipedia
とあります。
つまり、とあるコミュニティに属する人間が生活に必要となる資源をある程度、自由に持ち出すことのできる場所をコモンズと言うのです。
そして、そんな「コモンズ」のハナシをするにつけ、僕のとある経験を記しておきます。
「たろっぺぇ」の争奪と「コモンズ」
「たろっぺぇ」は誰のものでもない
僕は園芸業界に飛び込むために単身、神奈川県から群馬県に引っ越してきました。
そんな職場では毎年、春になると必ず「たろっぺぇ」の話題で持ちきりになります。
「たろっぺぇ」とは標準用語で「タラノメ」。
「タラノメ」は山菜の王様とよばれ、栽培されるものもありますが、自然に生える天然の「タラノメ」はやはり格別の美味しさがあるといいます。
神奈川県に住んでいるころは、そんな食材についてなんら気にも留めたこともありませんでした。
が、季節になると「タラノメ」の分布が話題となり、いまの大きさはどのくらいだとか、〇〇さんに先を越されたなど、静かなるタラノメ争奪戦が行われるのです。
僕も一度、「タラノメ」の分布先を案内されたことがあります。
道なき道を進んだ先、鬱蒼とした林の中に細い木が2本。
そのてっぺんには緑色の「芽」が小さく生え出ているだけのタラノメが。
「これはまだ小せぇから採れねぇ。あと1週間もすりゃあ、食べごろだんべなぁ。だけんど、明日から晴れが続きや、ちょっとは進むわいな」
そう呟いてはタラノメの収穫時期を練るのです…。
地元民はこの小さな芽を目当てに散歩中でも、車の運転中でも、道脇や森のなかを凝視し、小さな小さなたらっぺぇを捜索する(笑)。
そして誰よりも早くにその「旬」にありつくこと…それこそがこの時期の楽しみでもあるようなのです。
そう思うと、タラノメは地元民のコモンです。
生えている場所は誰かの土地ではあるのかもしれませんが、耕作地ではないところに生えるその山菜は、誰のものでもない…という共通認識があるようなのです。
もっともその集落自体こそが地域住民が住まう共同体であり、周辺の草刈りなど地域行事に積極的に参加しているからこそ、暗黙の裡に「山菜を採っても良いだろう」という選択肢が頭に浮かぶのだと思うのです。
松山さんの投げかけた深い問い
松山さんも講演のなかで「里草地(草という資源を共有で管理・採取する場)」を取り上げ、
いろんなひとが里山や里草地を管理することによって、その土地らしい風景ができる。
「花泥棒」もそんな自然から生まれてきたもの。
そして、植物をつまんで自然の恵みを料理に付け足すという日本の感性が「和食」にはあらわれているのだろう
と。
僕が群馬で目撃したのはまさしく、地域住民という共同体がコモンを利用する現場だったのです。
地域に積極的に関わるうえで、自然に存在する誰のものでもない食材を、誰かが採っていく。
そこには限りある貴重品であるのにも関わらず、貨幣の交換は発生しないし、誰かが取ったからといって、とがめられたり、警察に捕まることもない。
しかも、採った「タラノメ」は地域住民に再分配されるのです。
ときには生のまま、ときには天ぷら、ときには和え物として…。
そして松山さんの問題提起はここに繋がる。
街に花を供することで、誰かがそれをむやみに「花抜き」していくかもしれない。
そんなときにその行為をどう捉えていくべきなのか。
それを乗り越えなければ、公共物として街の中に花を飾る行為は「持続」しない。
むしろ花を誰かの資産(所有物)とするのではく、コモンとする活用も提案できるのではないか。
花を「コモンズ(共有財産)」とするためには、参加者が花への能動的な関わりがなければ達成できないのではないか。
ということを暗に示したようにも思うのです。
コモンズをどう生み出し、利用していくのか
先に挙げた「人新世の「資本論」」にもこう書かれています。
ここで重要なポイントは、本源的蓄積が始まる前には、土地や水といったコモンズは潤沢であったという点である。共同体の構成員であれば、誰でも無償で、必要に応じて利用できるものであったからだ。
引用元:人新世の「資本論」 (集英社新書)斉藤幸平
もちろん、好き勝手に使っていいわけではない。一定の社会的規則のもとで利用しなければならなかったし、違反者には罰則規定もあった。だが、決まりを守っていれば、人々に開かれた無償の共有財だったのだ。
さらに、コモンズにおいては、共用財産であるからこそ、人々は適度に手入れを行っており、また、利潤獲得が生産の目的ではないため、過度な自然への介入もなく、自然との共存を実現していた。
コモンズを維持するためには「適度な手入れ」も必要なのです。
松山さんはさらに植物を生産する「バッグヤードは世界のどこにでもある」と説きます。
つまり、僕らの住まう家の庭やベランダ、さらには畑など、どこか特定の場所をコモンズとするのではなく、身近な場所を花や緑の生産するコモンズとしても捉えることができるだろう…と。
公共の場に供される花や緑を買うことも必要ではあるけれど、全部が全部を対価を支払って用意する必要もなく、むしろ「第三の組織(サードセクター)」に所属する一般のひとたちが用意することも可能である。
…と僕はこの講義を理解しました。
たった2時間では語り切れないだろう内容を猛ダッシュで伝えていったこの講義…(笑)。
本来なら書籍1冊分は深堀出来るような気もするし、今後、花や緑をつかった社会活動も増えていくと思います。
そんななかでもこれから大切になってくるのは、むやみやたらに花や緑を配ったり、売ったりするのではなく、しっかりとした理念や意義が構築されていること。
そして分かり易く示され伝承されていくこと。
「きれい」「素敵」「かわいい」で終わってしまうだけの花の利用は昭和までに置いておくことが必要なのです。
それはなぜか。
地球温暖化をはじめ、あらゆる環境問題をスピーディに取り組むことが課題となっている昨今。
今後、企業や組織は環境問題などに対して、否応なくそのフィソロジーを提示することが求められていくことになるでしょう。
松山さんはその軸になる歴史や考え方を僕らに示してくれたのだと思います。