植物を育て続けるという肯定感。園芸の原動力は「癒し」なんかじゃない。

つい先日のこと。
今年はあまり植物を枯らしていないことに気が付き、妙に嬉しくなりました
でも、この嬉しさって道端で千円札を拾うような単なる喜びではないような気がしたのです。
報酬もないのになんで植物を育ててるんだろう…と。

植物を育てる意味は「癒し」なんかじゃない

癒されるために植物を育ててる?

食べるためでもない園芸という趣味は、なぜ成り立つのでしょう。
そう考えたとき、「癒し」というキーワードが頭に浮かびます

植物を育てる理由が「癒される」と答える人は多くいます。
でも僕は、「癒し」という言葉だけでは植物を育てる理由におさまらないような気がするのです。
「癒し」という言葉で、なぜ園芸を続けているのかの理由を片づけてしまっていいのでしょうか。
そもそも僕らは、癒されるために植物を育てているのではないのでは…と。

結論から書くと、僕が植物を育てる根本的な理由は植物を育てることによって肯定感を得られるからだと思うのです。

癒しを得るためには植物を育て続けなくてはならない

園芸の入門書にはもっぱら「植物から癒しを」というテーマが書かれていたりします。
でも、癒しという言葉が植物の何から癒されるのか具体的ではなく、その理由をはっきり答えられる人もそんなに多くはいません。

僕の経験からいえば、植物に水をやって、それに応えてくれるかのように萎れが回復したとき、植物とのコミュニケーションによって「癒された」と感じます。
あるいは多肉植物が多数並んでいて、色彩の豊かさだとか、花の香りだとかを感じることで「癒し」を得ることもあります。

a-fleshy-plant-757630_1280

ところが、上に挙げた「癒し」を得るためには、植物を枯らさないように育て続けなければいけません。
「癒し」を得ようとしているのに、手間ばかりとられ「癒し」とは程遠い作業の連続。
癒しだけを求めるのであれば恐らくその苦労も途中で投げたしてしまうはずです。

けれど僕らは、植物を育てています。
それはきっと、植物が育つことに肯定感を得ているからに他ならないのです。

育て続けることが、植物愛好家にとっての報酬

ここまで大きく育てることができた。
花を咲かせることができた。
実をつけた。
種ができた…。

そうです。
植物の成長にともなって得られる達成感や感動こそが僕らが植物を育てる原動力
なのではないでしょうか…。

とくに「難物」とよばれる栽培の難しい植物を育てられたときや、他にどこにもない品種を作出できたとき。
このときの肯定感は凄まじいものがあるはずです。
僕らはそのようなゴールに向かって植物を育てているのです。

食糧を生産する農業についても、一定量の収穫が出来たときには達成感(肯定感)が得られます。
これが植物を育てることのゆるぎない本質ではないのでしょうか。

「だから園芸はやめられない」

ゆえに「癒し」を求める目的だけで植物を育てはじめても長続きしません
絶えず植物を観察する目や、メンテナンスを施す手間が必要となるからです。

結果、試行錯誤を繰り返した先に肯定感を得られるのであって、「癒し」などの次元で満足することは僕は基本的にありません。
癒しというのはこの肯定感のひとつの要素であって、決して園芸の最大要素ではないのです。

photo credit: Barefoot Boy Picks Beans via photopin (license)
photo credit: Barefoot Boy Picks Beans via photopin (license)

植物を育て続け、少しずつ表情の変わっていく愛株と日々を重ねていくこと。
未知の生態に驚くこと。
他の人には理解されがたい魅力を見つけ出すこと…。
これこそが本当の意味で「癒し」なのかもしれません。
花が咲いて、肯定感を得て、そして五感で「癒される」。
柳生慎吾さんの言葉を借りれば「だから園芸はやめられない」のです!

追記:2019年12月

この記事を書いて3年。
僕がいま思うことを書き連ねてみました。
いわば続編です。

お時間があるときに、どうぞ。

この記事を書いた人

mokutaro

植物好きが高じ鉢物業界に飛び込んだアラサー男子。群馬県に移住し、毎日、食べ(られ)ない嗜好性の強い植物とまみれています。 園芸を考えるブログ「ボタニカログ」を運営中。